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HP New face 3.jpg第2版:99%のための経済学入門.jpg  ようこそ、Netizen越風山房へ。ここは、わたしたち99%の平穏な暮らしをエンジョイするための情報発信サイトです。世界第3位の「経済大国」の豊かさはなぜ実感できないのでしょうか。株価と円・ドル相場・1000兆円の累積国債に振り回される経済から脱出しましょう。We are the 99% !! 1人1人が主権者です。この国のあり方は私たちが決めましょう。


笑 顔


 群馬大を定年退職し、高齢者の仲間入りをしてから、東京に通っている。週一回、東京の世田谷にある大学に経済学の出講に出かけている。若いときの東京での暮らしではあまり見えなかったが、東京はいろいろな意味で、社会や人生の「縮図」を時々刻々映し出す。
 日頃、東京から北西100キロの自然豊かな利根川河畔の暮らしにどっぷりと浸っている身には、大都会・東京のきわだった特徴が目につく。どちらかと言えば、東京に対しては、故郷越後の里山育ちを自認している身には、あまりポジティブな印象を持っていない。
 でも、今年の4月からの前期講義の出講の折、とても心温まる体験をした。1つは、新宿駅のホームでのことだった。いつも利用している湘南新宿ラインは、渋谷・新宿・池袋駅を経由し、高崎線に直結し、高崎駅や前橋駅まで直通の通勤快速である。
 長い15両編成のこの電車は、前5両を籠原駅で切り離すので、10号車や9号車に乗車する。そうすれば、運良く高崎駅や前橋駅まですわって本を読んだまま帰宅できる。とはいえ、1日の乗降客数が340万人もいる新宿駅などのターミナル駅のホームでは、いま、自分が待っている場所は、15両編成の電車の何号車なのかを確かめないと気が気でない。ところが、それがあまり簡単ではない。ホームがごった返している上に、待ち人の靴が何号車か明示している部分を踏んづけ、隠してしまうからである。そうなると、11号車の場所か、10号車の場所かわからなくなる。もし、11号車に乗ってしまうと、籠原駅止まりになるので、乗り換えなくてはならない。
 いつものように、自分の足下を見て10号車の位置か確かめていると、同じようなことをしているベビーカーをひいた若い女性がいた。赤ちゃん連れの若い女性は、乗降客でごった返す新宿駅のホームで、赤ちゃんを守ろうと神経をとがらせている。2列に並んで電車を待つ隣の私にも厳しい視線を向けていた。
 ホームに電車が滑り込んできた。さきに降車の客が降り、私たち乗車客が乗り込む番になった。若い母親は、大きなベビーカーを後ろ向きにし、ホームと段差のある電車にベビーカーを引っ張り上げようとしたとき、ベビーカーの車輪がホームと電車の隙間に挟まってしまった。
 「これはいけない」と思い、私はとっさにベビーカーの前に回り、「よいしょ」と電車の中に押し上げた。その時見せた若い母親の笑顔は、大都会にあってほとんどお目にかかることのないような笑顔だった。いままでのとげとげした緊張感は霧消した。電車はいつものように混雑していた。わたしは、あえて若い母親とベビーカーから離れた場所の吊革に捕まって電車の発車を待った。その笑顔はしばらく心に残り、あたたかい思いが私を包んだ。
 もう1つの体験も、電車でのことだった。渋谷駅から東急田園都市線に乗り換え、目当ての大学に出講に行く。12時22分発の電車が渋谷駅に入ってきた。テキストやiPadなどの機材をつめたリュックを背負った68歳の高齢者が乗り込み、吊革に手をかけようとしたとき、私の前に座っていた若い女性がさっさと立ち上がった。電車を降りるのかと思ったが、ちょっと離れた場所で吊革につかまりながら文庫本を読み始めた。わたしに席を譲ってくれたのだ。ひと呼吸おいて、わたしはその席に着席した。
 渋谷駅から3つ目の駅でわたしは降りる。ここから8分ほどで大学の講師控室に着く。電車を降りるとき、席を譲ってくれ、文庫本を読み続けている女性の場所まで行って、「席、どうも」とひとこと言って、すぐ降りた。一瞬だったが、私の言葉に、すぐ反応し、こちらに笑顔をむけた。やはりそうだった。ごった返す車中で、わざわざ席を譲ってくれたのだ。そのお礼の一言に、振り向いた笑顔は、若い女性という美しさの特権を差し引いても、見知らぬ人のゆきかう大都会のなかの心温まる光景として、いまも記憶に残っている。

桃ノ木川のサイクリング


 秋の晴天に誘われ、近所の桃ノ木川のサイクリングロードにでかけていった。かれこれ3時間ほど、愛車の LUOIS GARNEAU TR2 のペダルを漕ぎつづけた。大きな川ではなかったが、水辺にはあまたの生命が躍動していた。魚だけではない。水草だけでもない。水辺には、鳥が舞い降り、川風に木々がそよぎ、釣り人達が竿を伸ばし、散歩人たちが行き交っていた。河畔が広がった一角には、青いシートでテントがつくられ、洗濯物が干され、だれかが暮らしている光景にも出くわした。
 所々で立ち止まり、愛機のニコンD800のシャッターを押し、河畔の風景を切り取ってきたが、さすがに3時間も自転車を漕ぎつづけたことがなく、足腰に疲れを感じた。ペダルを漕ぎ始めて、しばらくして気づいたことは、いつのまにか自転車をこんなにも長時間立ち止まることなく漕ぎつづけていることだった。街中での走行とちがい、自転車を強制的に止めてしまう信号機がどこにもないからだった。
 河畔の風景と一体になって風を切り、日常の生活とはちがう自然のなかに浸っている自分を発見した。こんなことが近所の桃ノ木川のサイクリングロードで体験できることに驚かされた。

二つの川ー渋海川と利根川


 なぜか、川に心惹かれる。幼少のころ、家の前を流れる小さな川でよく遊んだ。少年になると、集落の東を流れる「おおかわ」と呼んだ渋海川で泳ぎ、魚をつかまえた。長じて、東京では、世田谷区の多摩川河畔に開発された都営住宅に住んだ。そして、晩年のいま、前橋市の利根川河畔に暮らし、ここを終生の地とした。
 なぜ、こんなにまで川に惹かれるのだろうか。そこに心安らぐ水流があり、目にまばゆい緑があり、見上げれば、どこまでも青い大空が広がっているからだろうか。
 かつて、鴨長明は、平家の滅亡、源氏の滅亡の激動の時代にあって、人の世の移り変わりをゆく川の流れにたとえて、方丈記を著した。たしかに、ゆく川の流れは絶えることがなく、常に変化する。それは、人の世にも、一木一草にもあてはまる。
 長明の時代には、社会変動の原因、まして地震や雷、疫病などの原因はまだわからなかったので、この世には人知の力ではどうにもならないことがある、といった厭世的な心境に陥ることは避けられなかったにちがいない。
 近代科学の発展と情報通信技術の広がりによって、いろんな事がわかる時代に生き、世をはかない、川の流れと問答を繰り返さなくとも良い時代がやってきたのに、いぜんとして現代人は、川に惹かれ、仲間や家族と河畔に集まり、楽しいひとときを過ごし、帰宅の途につく。やはり、川の流れと水辺、河畔とその空間には、時代を超えて人を誘い、心安らぐなにかがあるように思えてくる。
 人類の古代文明も、古代人の生活圏も、ナイル川・インダス川・黄河などの大河のほとりからはじまった。渋海川や利根川のほとりでも、矢尻・各種の石器・土器の欠片が発掘され、古代人の生活のおびただしい痕跡をとどめている。渋海川には、泳ぎにも、釣りにもよく出かけたが、もう一つの目的は、矢尻や土器を発見することだった。原から苔の島集落にかけて急な登り坂になるが、川面からかなり登り切った畑が目的の地だった。少年の目にはその高さは断崖絶壁のように見えたが、渋海川の水流が長い年月をかけて山肌を削り、いまのように谷底のような流れになったからなのだろうか。それとも、川面から離れた高い場所に住居を構えたのは、古くから大洪水を繰り返した渋海川の水害を避けた、古代人の知恵だったのかも知れない。
 あのころ発見した矢尻や土器の破片、とくに仲間に得意げに見せていた石斧は、どこにいってしまったのだろうか。
 『へんなか』につづき、『小国文化』を記念すべき一〇〇号まで発刊した高橋実氏は、鈴木牧之『北越雪譜』研究の第一人者でもある。江戸時代に出版された『北越雪譜』は、雪国越後の風俗・暮らし・方言・産業・奇譚などを記述している。そのなかには渋海川の記述もある。凍った渋海川の氷が割れ、轟々と流れる様を花見の様に観賞した「渋海川ざい渉り」(越後の方言でものが凍ることを「ざい」という)の記述、春に何百万というさかべつたう(越後の古い方言で蝶々のこと)が川下から川上へと舞い飛んでいく「渋海川さかべつたう」の記述など、今では見られなくなった渋海川の風景が記録されている。
 十日町市に源流を発し、長岡市で信濃川に合流する全長七〇キロほどの一級河川が渋海川である。かたや、いまその河畔に暮らす利根川は、群馬県利根郡みなかみ町に源流を発し、関東圏での三二〇キロほどの旅路の果てに、千葉県の銚子沖で太平洋に注ぎ込む大河である。大きすぎ、長すぎて、古くからさまざまな歴史を彩ってきた、つかみどころのない大河である。この大河のほとりに暮らし始めてまだ二〇年ほどの新参者にとってはなおさらである。
 とはいっても、大河であれ、渓流や小川であれ、川の魅力と癒やしには共通するものがある。
 春夏秋冬、毎朝、愛犬といっしょに、利根川河畔を散歩することから一日が始まる。そこには、いろんな出会いがある。その感動を俳句に詠んできた。

 春ー「川底に小石の笑ひ春来たる」
 夏ー「利根河畔行く手じゃまする蛇の衣」
 秋ー「秋の暮釣師の姿透き通り」
 冬ー「対岸の家くつきりと冬銀河」
           (山田越風)
 河畔に立って、はるか上流を見渡せば、新潟県と群馬県の県境に谷川連峰が屹立し、その向こうは故郷の空である。
 四季折々の河畔と川面の風景は、デジカメにも記録し、その画像は一万枚をこえた。いずれも、素人の風景写真で、人前に披露するにははばかられる。書斎のパソコンの画面で観ている。とくに、定点観測で撮影し、静かな流れが、台風と洪水で一変し、牙をむき、怒濤となって押し寄せる様は迫力満点で、脅威を感じる。家族にその写真を見せたところ、なんでこんな危険な場所で撮影したのか、と叱られてしまった。
 いつの日か、俳文と写真で河畔の暮らしをつづった句集ともエッセイともつかない作品を仕上げることがひそかな目的である。
 河畔の暮らしは楽しい。毎朝散歩に出かける利根の大河に、幼いころ無心に遊んだ故郷の渋海川の面影を見ているのかもしれない。

『小国文化』第100号、小国文化フォーラム発行、2016年8月)


遅刻10分


 4月から、東京の大学に週1回、通勤している。3月末に群馬大学を定年退職し、非常勤の講師として経済学を教えに通っている。朝、新前橋駅まで妻に送ってもらい、湘南新宿ラインに乗り、渋谷駅から東急田園都市線に乗り換え、通っている。
 各駅停車で、コトコト時間をかけて通っている。新幹線や急行は、時間を惜しむビジネス社会の通勤列車である。1人1人が前を向き、閉じられたボックスのなかで、目的地に着くまで、前の座席の背もたれに向き合って過ごす。なんとも味気ない通勤風景である。
 でも、各駅停車は、座席が窓際1例なので、様々なファッションをまとった老若男女に対面する。べつに、話しかけたり、視線を合わせるわけでないので、こちらが勝手にいろんなことを空想するだけである。これが楽しい。
 そんな通勤をはじめて、3ヶ月ほどたったある日、電車は赤羽駅で立ち往生した。人身事故のためである。アナウンスでは、いつ発車するかわからない、という。
 困った。講義に遅刻する。埼京線は動いている、というのでそれに乗り換えた。なんとか池袋駅までやってきた。ここからどうするか。遅れ気味の環状線で行くか、他の路線に乗り換えるか。どちらが早く渋谷駅まで行けるか。妻から持たされた地下鉄の複雑な路線図を慌ただしく取り出した。決まった。東京メトロ・副都心線に乗り換えた。池袋駅から渋谷駅まで直通の地下鉄である。1970年代の東京での学生時代にはなかった路線である。
 結局、講義には10分の遅刻で間に合った。あらかじめ大学の教務係に連絡しておいたので、大教室の黒板には、列車の事故により山田が15〜20分遅刻すると大書してあった。学生たちには10分遅刻した理由を話し、残り80分間の講義に入った。
 首都圏の電車に乗っていると、時たまアナウンスがはいり、ドア上部の画面にテロップが流れる。人身事故のため、関係する路線に遅れが生じている、といったテロップである。人身事故とは、痛ましいことに、自殺しようとして、走ってくる電車に身を投げる事故である。
 経済規模なら世界第3位なのに、現代日本では、生活苦などを理由に、年間3万人の方々が自殺をしている。こんな国はない。
 日本国憲法(第25条)は、「健康で文化的な最低限の生活を営む権利」を国民に保障し、国はその務めを果たす義務がある、と明記している。なのに、実情はまったく異なっている。世界トップレベルの経済規模の豊かさは、1億2700万人の国民に等しく分配されていない。
 とくに、近年、フルタイムで働いているのに、生活保護基準の所得すらもらえない、年収200万円以下の働く貧困層(ワーキングプア)が2000万人ほどに達している。日本社会で働いている人の3人に1人ほどが、働いても働いても貧しい生活から抜け出せないでいる。
 これは、政府と政治の責任である。日本政府と国会は何をしているのだろうか。憲法を守ることをいちばん厳しく義務付けられているはずの政府と国会議員が、自ら憲法に違反する事態を放置している、といってよい。
 「はたらけどはたらけど猶わが生活(くらし)樂にならざりぢつと手を見る」、と石川啄木が歌ったのは、今から100年以上前の明治時代のことである。あれから、アジアでいち早く産業革命の成果を取り入れ、経済大国の仲間入りをした日本という国は、大切なことを置き忘れて、今日にいたっているのではないだろうか。

『小国文化』(第94号、小国文化フォーラム発行、2015年)

時代はJSA(日本科学者会議)を求めている

JSA群馬支部

 群馬支部では、最近、人文・社会系を専門とする若い大学教員5名と弁護士2名がJSAの会則に賛同し、自分の研究や仕事を通じて、平和・人権・生活向上・地域社会の文化の発展に貢献したい、と会員に加わった。 
 日本科学者会議群馬支部(JSAG)は、1970年に創設され、当時の群馬県と日本社会が直面した公害問題などに取り組み、大きな成果を上げてきた。会員数も自然科学系を中心に3桁に達した。その後、支部活動は、全国的傾向と歩調を合わせ、停滞局面がつづき、会員数も減少してきた。 
 だが、時代は巡り、直面する問題も変転した。戦後70年の「平和国家」のブランドを投げ捨て、「戦争する国」へ舵を切り、生存権そのものを脅かす「アベノミクス」、グローバル化し、激変する現代世界などについて、科学的に分析し、問題の所在とその解決の方向を提示するJSAの取り組みは、いま、時代が求めているようだ。 
 群馬支部は、最近、四半期に1回のペースで、会員や学生・院生が参加し、「安楽死について」「暴走するアベノミクス」「特定秘密保護法の憲法的問題点」といったテーマで研究セミナーを群馬大学内の教室で開催してきた。さらに、群馬支部の存在と活動の内容を広く一般市民に知ってもらうため、4月の総会と講演会は、大学から街中に会場を移して開催する。JSAGの活動を発展させるためには、やはり、姿を見てもらうことが、なにより重要である、と考えている。楽しく、軽やかに、JSAG会員の研究成果を地域社会に還元して行きたい。

『日本の科学者』(2015年6月号,Vol.50,No.6)

松林の散歩


 海辺に暮らしているわけでないが、松林の散歩を日課にしている。ここは太平洋からも日本海からも、遠く隔った海のない群馬県の県庁所在地である。松の木は水はけの良い海辺の砂地や岩肌の露出した荒地に群生している樹木である。そんな松の木が、内陸の地方都市で群生しているのは、利根川の河原に広範囲に堆積した川砂のせいである。
 利根川は、新潟県と群馬県の県境の大水上山を源流に持ち、322キロの旅路の果てに、千葉県の銚子市で太平洋に注ぐ。その流域は、茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県・東京都・長野県の一都六県におよんでいる。利根川は、太古から暴れ川として広範囲の流域に流れ込み、営々と大量の土砂を運んだことになる。
 そのおかげで、海とは程遠く、岩山でもない日本列島の臍にあたる緯度36度、経度139度の地に松林が出現することになった。
 この地に引っ越してきた当初、松林を散策し、もしこの松林が故郷の小国町の里山のように、ドングリの実る雑木林であったら、どんなにか楽しかろう、と思ったりした。幼い頃から親しんできた雑木林は、冬の裸木から春の芽吹き、夏の緑葉、そして秋の紅葉、と四季折々に姿を変え、散策する人の目を楽しませる。そこは、昆虫も、小鳥も、小動物も住み着く、生命の営みに満ちた地である。
 ややもすれば、そんな不満を感じつつ、毎朝、愛犬と一緒に松林を散歩してきた。ところが、いつの頃からか、松林の散歩も、これはこれでいい、と感じるようになった。住めば都といった習いを素直に受け入れたわけでない。松林には松林なりのよさを感じたからである。
 前橋市の中心街にあるこの敷島公園松林は、36.6ヘクタールの園地に、7ヘクタールの松林があり、そこに12,700本の松が群生している。前橋市出身の詩人萩原朔太郎もこの松林を好んで散策したようであるが、毎朝散歩していると、一見単調に見える松林と松の木が、年々歳々、わたしの暮らしに染み込んできたようだ。
 ふた抱えもあるほどの大木に成長した松の木の樹皮はぶあつく発達し、亀甲状に深く割れ、大地の岩石がそのまま樹皮として造形されたかのようである。それが緑色の苔に覆われていると、雨上がりの翌日、朝日を斜めから浴びる大木の幹は、鮮やかな緑色の釉薬をかけられ、風雪を刻んだ陰影の深い岩肌のようでもあり、どんな陶芸家もなし得ないほどの景観をみせる。そんな光景に出くわすと、デジタルカメラを取りに大慌てで家まで引き返す。
 松と人の暮らしは、古くて広いつながりをもってきた。古くから美しい海辺の景観は、松島や天橋立に象徴される白砂青松の言葉を紡いだ。松の木は、庭木や盆栽としても愛でられ、建材に利用され、油分を多く含むことから、松明や燃料に利用された。書道では松煙墨、松の実は料理に使われた。ものみな枯れる真冬でも青々とした葉をつける松は、不老長寿の象徴であり、正月の門松は、魔除けの樹木である。松と人の暮らしの接点は数限りなくある。
 日課として松林の散歩をつづけているうちに、いつの頃からか、雑木林にはない魅力を感じたのは、松の木と人の暮らしとの古くて広いつながりのせいだったのかも知れない。
 でも自宅の庭に松の木を植えようとは思わない。やはり故郷の里山を象徴する雑木である。すでに小国の山からいただいた山法師が大きく育ち、根元には藪柑子が広がっている。
                        松葉透け降る月光や影ふたつ(越風)

『小国文化』(第92号、小国文化フォーラム発行、2015年4月)

  河畔の暮らしと俳句徒然


 利根川河畔に寓居をかまえ、河畔の暮らしをはじめてから、愛犬との日課の散歩は、春夏秋冬、河畔の散策となった。河畔の四季、河畔でのさまざまな年中行事などは、多様な句材を提供してくれる。
 散歩には、ちっちゃなICレコーダーを携え、浮かんできた俳句をそのたびに録音する。帰宅して、俳句帳に書き出し、パソコンに入力する。
 ときどき、ふと、俳句ってなんだろうと思ったりする。通例、表現する世界、とくに学問の世界では、意味の曖昧さ・多様な解釈は許されず、誰もが否定できないデータに基づき、論旨明快な証明と結論があるだけである。
 でも、俳句の世界はそうではない。それなりの意味を伝える散文とも違い、5音・7音・5音、の3つのパーツの組合せで、1つの小宇宙を創造する韻文である。この小宇宙の特徴は、1つの明解な意味を伝えるものでなく、読み手に多様な解釈の余地を残す。なぜ、この句材とあの句材との取り合わせが可能なのか、理詰めでいったら理解不能である。名句として後世に残った俳句の中には、理詰めで理解できない俳句が存在する。これが、かつて桑原武夫の指摘した俳句=「第二芸術」論の根拠ともなった。
 そのような議論に洗われつつ、俳句の世界は、芭蕉ー蕪村ー一茶ー子規ー虚子ー蛇笏ー龍太ーそして、現代の俳人たちへ、と300有余年にわたり、永永と詠いつがれてきた。いまなお100万人を超える愛好者たちが、世界最短詩の小宇宙を紡ぎだしている。蛇笏によれば、俳句がうまくなる人の条件として、あまり頭が良くない人(正確には、小賢しい人、という意味であろう)、あまり健康でない人、あまり金持ちでない人、ということのようである。いまのところ、健康はともかく、残りの条件は合格しているので、わたしにも俳句がうまくなる条件はそろっている。健康だって、このさき高齢化していくにつれて、あまり健康でない人になっていくであろうから、めでたく3条件に合格することになる。ということは、俳句は老後のこれからがうまくなる、と信じたい。
 大空をひとりじめする大河の河畔に立つと、なんともいえない開放感が満ちてくる。河畔の魅力はつきることがない。世界の4大文明も、大河のほとりで開花したことからすると、まだまだ秘められた魅力が伏在していることであろう。この感動を300有余年の表現形式の中に取り込み、定着させてみたい、と思う。そして、このような試みが自由にできる時代が永くつづいてほしいと思う。
 でも、そのように思うだけで、はたして俳句で遊ぶこの楽しみが、ますます閉塞感を強くしてきた日本社会でつづけていけるのだろうか。兜太は、戦禍を避けるために、任地のトラック島で詠んだ俳句を紙片に筆記し、それを石鹸の中に隠し、持ち帰った、という。
 言論統制の強まる社会では、俳句も楽しめない。最近の政権は、秘密保護法を強行採決し、内閣・官僚・自衛隊の「国家」のために、不都合な情報は隠匿することができる国になってしまった。不都合な情報の公開が罰せられるようになると、言論表現の自由は窒息する。事実やデータが公表されなくなると、まともな研究もできなくなる。さらに、一内閣にすぎないのに、勝手に憲法を解釈し、集団的自衛権を閣議で決めてしまい、「戦争のできる国」にしてしまった。
 戦後の70年間ほど、世界のどこにも戦禍を与えなかった「平和国家」日本の国際的なブランドが、投げ捨てられようとしている。広島と長崎に原爆を投下したアメリカは戦後の70年間ほどを世界中のあちこちで、何らかの理由をつけて戦争をしてきた。ベトナムでは209万人、アフガンでは48万人、そしてイラン・イラクでは64万人の戦死者を出している。ドイツ、フランス、イギリス、イタリアも,その規模こそ違うとはいえ、戦後、他国に軍隊を送り、なにがしかの戦禍を与えてきた。先進国の中で、唯一、日本だけが、それをしてこなかった。
 平和な社会でしか自由な表現はなく、俳句を楽しめないとしたら、平和を乱し、社会を閉塞させようとするシステムや潮流には、NO!の意思表示をしつづけることが避けられないように思われる。社会に異議申し立てをする俳人でありたい。
 河畔に立ち、北を振り返れば、上州と越後の県境に屹立する谷川連峰が見える。あの谷川連峰の向こう側には、私を育ててくれた父母がいて、山河がある。故郷の古人も、越後の地から江戸・東京に出稼ぎや学業に出かけたとき、帰郷がてら、谷川連峰が目前に現れ、三国峠にさしかかると、急に故郷を感じたことであろう。わたしも、そのうちの一人となって、いま、この河畔にたつ。
 ただ、なにかにつけて故郷を回顧するのは、日本の男女差別の風習のなせる、古い道徳観に浸った「おめでたいニッポン男子」の独りよがりなのかも知れない。「十五で姐やは 嫁に行き お里のたよりも 絶えはてた」女性たちにとって、嫁いで行った先が、故郷から千里離れていても、「故郷恋いし」を口に出していえない時代が永くつづいてきた。あるいは、いまなおそうかも知れない。わが妻は、上州でもなく越後でもなく、西の国の出身である。いま、ここで、精一杯生きる妻たちよ。
 会社役員の4割以上が女性役員でない企業はペナルティを受ける国がでてきたというのに、経済の規模ならアメリカ・中国に次ぐ世界3位の「経済大国」日本では、たった1割にすぎない。3〜4割がざらの先進国の中で最低である。国会議員の女性割合となると、わずかに8%であり、先進国ではもちろん最低であるが、世界ランキングでも、127位のようである。男女差別は、単に男女の問題ではなく、じつは、社会にはびこっているあらゆる差別や格差の象徴であり、社会の問題、政治の問題である。
 世界第3位の経済の大きさと、社会のあり方、その中味との大きすぎる落差に愕然とし、一杯飲まないことには平衡感覚を失ってしまいそうである。
 それかこれか、ぼちぼち、故郷越後の、室町時代創業の、味はもちろん、リーズナブルな価格設定の純米酒が、五臓六腑にまわってきたようである。ろれつも、筆先というか、キーボードのキーも、手元がおぼつかなくなってきたようである。

      (越風山房のホームページ http://econ-yamada.edu.gunma-u.ac.jp
『星嶺』「星嶺ぶらり」2014年10月

  ふるさとの酒


 60歳代半ばにして、はじめて日本酒のうまさに開眼した。信じてもらえないかも知れないが、本当である。気象庁の観測開始来120年ぶりの大雪が前橋に降った2月中旬、越後の雪国育ちの血が騒いだ。張り切って雪掻きに精を出し、その日、身体は久しぶりに疲れ切った。いつもはビールなのに、どういうわけか、その日は、弟からもらっていた故郷のA酒造のお酒に手を出した。
 熱燗の日本酒が口の中でじんわりとほのかな甘みをともなって広がったとき、お酒のもたらすなんとも幸せな味わいに、はじめて気づかされた。ホップの創り出すビールの淡いコクともちがい、またウィスキー・焼酎のような蒸留酒特有のアルコールの鋭さでもなく、お米と酵母菌の営みによって醸し出された深いほのぼの感を味わった。
 もちろん、日本酒のことは、コメどころ・サケどころの越後の出身なので、充分すぎるほどわかっていた。それはふるさと自慢のひとつでもあった。ふるさとのお酒はすばらしい、と友人知人に話していた。越後出身の微生物学者の執筆した岩波新書(「日本の酒」)を読み、納得してもいた。
 だが、自分で毎晩のように愛飲するアルコールはビールであった。日本酒は飲まない。戴物をしても、知人に回すか、料理酒として利用していた。
 なぜ、そうなったのか、あれこれ思案してみると、思い当たることがあった。今年、卒寿となった父は、若いときから晩酌で、地元のY酒造のお酒を愛飲してきた。夕方になり、茶碗やコップを傾ける父の晩酌は、今日という一日がおわり、休息の時間が訪れたことを家族に告げる一種の行事でもあった。
 小学生だった頃の夏の日、まだ日の高い時分に、父が美味しそうに飲んでいたコップの透明な液体を、水と間違えてゴクンと勢いよく飲んでしまったことがあった。その時の経験が、その後、日本酒を遠ざけてしまったようだ。日本酒とは、まったくとんでもない水だ、と強く印象づけられてしまったからであった。
 長じてアルコールが飲める年頃になった東京の学生時代に、仲間とのコンパでよく飲まれたのは、ビールであった。ジョッキに溢れんばかりにそそがれたビールをガチンとぶっつけ、若さにまかせ一気に飲み込むときの喉越しの爽快感は、ビール以外のアルコールでは味わうことができなかった。この時代に、ビールの味を知ってしまい、以後、何かにつけてビールを愛飲してきた。
 当時の日本酒といえば、新興勢力ともいえるビールとウィスキーに押されて、一部の根強い愛飲家を除き、まったく存在感がなかった。その後も、ワインが広く受け入れられ、アルコール市場の日本酒のシェアは洋酒に押しまくられ、狭まる一方であった。日本の自然環境・行事・文化の中で育まれてきた日本酒が、その本来の底力を発揮するのはもっと後になってからであった。
 観測史上はじめての大雪が、偶然にも、日本酒のうまさを教えてくれた。そのうえ、長岡市内だけでも、15社の酒造メーカーが、信濃川水域の水とお米で酒造りに勤しんでいる。晩酌で愛飲するのは、織田信長が結婚した年に創業し、470年ほどの歴史を持つというY酒造の純米酒である。ほかにも、全国ブランドになった酒は、小国町を貫く渋海川下流のA酒造でつくられる。
 いずれの酒造メーカーも、幼いときから親しんできた名前である。ただ、晩酌のお猪口に注がれるのは、かつて父が愛飲してきたY酒造のお酒である。最近手に入れた備前のお猪口で酒を口に運ぶたびに、なにか父に近づき、少し偉くなったような気がするのはどうしてなのだろう。

(やまだひろふみ・前橋市在住・群馬大学教授)
『小国文化』(第86号、小国文化フォーラム発行、2014年4月)

故郷の雪


 冬がやってきた。越後生まれの雪国育ちにとって、「雪」は、ことのほか深い意味をもっている。幼い日々の雪国の暮らしは、大人になっても影響を与えているようにおもう。
 そんなことを実感したのは、瀬戸内海に面し、雪とは無縁の土地で生まれ育った妻を、はじめて両親に会わせようと、冬の上越線に乗って、当時の清水トンネルを抜けたときだった。
 二人を乗せた列車が、輝くばかりの雪景色のなかへ突っ込んでいったとき、隣に座っていた妻は、「わあー、きれい!」、と満面の笑顔を浮かべ、少女のようにはしゃいだ。妻のはしゃいだ声につられ、車窓に目をやると、たしかに冬の突き抜けた青空のもと、キラキラ輝く真っ白い景色がひろがっていた。
 その瞬間、わたしを襲ったのは、目前の雪景色の美しさではなく、ある種の重さと辛さだった。雪下ろし、早朝の道つけ、降りしきる雪のなかの登下校、しもやけのホッペ、凍える指先、などなどの体験が、一瞬によみがえったからだった。多分、そんな心のあり様が顔にも出ていたのか、隣ではしゃいでいた妻は、怪訝な目線を私に送ってきたようにおもう。
 たしかに、雪国の暮らしは厳しかった。でも、たくさんの楽しいこともあった。学校が終われば、一目散に駆けつけたのは、家の裏山のスキー遊びだ。当時の冬の遊びといえばスキーだった。まだスキー靴などない時代だから、革紐で長靴にスキーを結びつけて滑った。曲がり損ねて立木に衝突し、何回も目から火がでた。体育の時間、校庭を使った雪合戦には熱がはいった。春が近づいてくると、冷え込んだ翌朝には、根雪が堅くなり、雪上を歩いて行けるしみ渡り(凍み渡り)が楽しめた。雪で家に閉じ込められた生活から、野山のどこにでも、かんじきなしで歩いて行けたので、日中の温度が上がり、堅い雪が解けるまで、時間を惜しんで、野山を散策した。白い雪山に、黒い杉木立が点在する風景は、一幅の水墨画であった。
 あれから、半世紀が過ぎていった。郷里を旅立って以来、東京など、雪の降らない土地での暮らしがずいぶんながくなった。いま、雪のない隣県の前橋市・利根川河畔に暮らす。前橋の冬空が晴天になると、故郷の冬空は、きまっておもく垂れこめ、雪が降っている。それは、電話口の母の話からもうかがい知る。
 冬の日、愛犬を連れ、晴天の空のもと、日課の散歩に出ると、わたしの心のどこかで、谷川連峰の向こうの故郷の雪の暮らしに思いをはせ、晴天の絶好の散歩日よりなのに、諸手を挙げて楽しめないもう一人の自分がいることに気づかされる。風花は故郷の便り犬駈ける(越風)

(やまだひろふみ・前橋市在住・群馬大学教授)
『小国文化』(第85号、小国文化フォーラム発行、2014年2月)

還暦記念の中欧の旅


 還暦の記念を兼ねて、はじめて、妻と二人で中欧を旅してきた。
 日頃、データや文献で知っているつもりでも、実際に現地に行ってつくづく感じるのは、一体、戦後日本の経済成長とはなんだったのだろうか、ということである。
 独仏は例外として、中欧諸国は、経済規模ならわが国の中規模の県経済ほどなのに、落ち着いた町並みにゆったりと時間が流れ、歩道も整備され、自転車道があり、路面電車が走り、もちろん騒々しい自動車道もあるが、歩道と一番離れた真ん中にのびる。
 だから、足元のおぼつかなくなった高齢者でも、安心して街を散歩できる。結局、バリアフリーの街づくりが進むと、老若男女の万人にとってきわめて暮らしやすい街を手に入れたことになる。
街の喧噪に一役買っているのは、きらびやかなネオンサインであり、24時間開店しているコンビニ、山のような商品群を陳列し、客寄せに余念のない商店であるが、そのようなむき出しのビジネススタイルはあまり目立たなかった。
 多分、人が普通に暮らすためには、1日2000キロカロリー前後の食物の摂取さえできれば、そんなに多くのものを必要としないのだろう。そ れ以上の消費は過剰消費となろう。実際、借金して消費してきたアメリカは、もしいまの消費水準を継続したいなら、あと4〜5個の地球資源が必要になるよう だ。
 経済成長は、人々の暮らしのゆとりと豊かさのためにあるべきであって、それ以上でも、それ以下でもないはずだ。
 現代日本社会に問われているのは、一部大企業に偏倚している経済成長の果実を公平に分配することであり、経済社会の中身の充実、国民が主人公の国づくりである。
 日本の代表的な企業を世界ランキングの上位にするための経済成長では、過労死やリストラが繰り返され、格差が拡大し、社会的な対立がますます深まるであろう。
 「グローバル競争に勝つ」といった仮想敵のような貧弱な発想から、卒業することである。いまでさえ、平均的なドイツ人・フランス人よりも、3ヶ月間も多く働かされている現状を直視するなら、見えてくるものがあるはずだ。
「成長信仰」の呪縛から逃れ、国民生活の充実に目を向けた国づくりを、この国はいつになったらやるのだろう。
経済的にはとても小さな中欧諸国を旅して見えてきたのは、とても大きなことであったような気がする。
(2010.11「白門四八会」誌)
追伸:くさり橋2つの街の星月夜

庭の雪小国


 暦の上の春とは裏腹に、寒さの厳しい日々がつづく。雨の晴れ間を縫って、近隣をドライブする。わが故郷の方面にゆったり横たえる子持山は、いつも散歩の時に視線に入る山の一つである。芽吹きはじめた野山の緑をしばらく楽しんだ後、「道の駅 こもち」に車を止めた。
 いつものように、草花や植木のコーナーを見て回った。狭いわが家の庭には、もう草花を植える余地はない。単なる冷やかしのつもりで、視線を 泳がせていると、「雪小国」という文字が目に飛び込んできた。小国町の小国の字を使用したツバキの名前であった。珍しいこともあるものだと思い、その場を 立ち去った。
 でも、そのツバキにぶら下がっていた上品な淡桃色の花びらの写真と雪小国という名前は、帰宅のドライブの最中でも何回も頭に浮かんできた。 やはり気になってインターネットで調べてみた。すると、それは、わが故郷小国町の「町の木」であった。ネット上には、雪小国に関する情報がたくさん紹介さ れていた。色は淡桃色、牡丹・八重咲き、割りしべ、大輪、ユキツバキ系、といった特徴をもつツバキであった。
 翌日、そのツバキを求めて、「道の駅 こもち」に車を走らせた。あった。枯れたつぼみをつけた50センチほどの貧相な苗は、昨日と同じ棚に あった。さっそく買い求めて、家に持ち帰った。10個ほどのつぼみは、ほとんどが枯れており、三個ほどのつぼみは生きているようだった。鉢の中には、もう 土がなく、白い根で埋まっていたので、移植しても根付くかどうか、はかりかねたが、植えてみた。
 1週間ほどして、いつものように居間から庭を眺めていると、淡いピンクの花びら が目に飛び込んできた。雪小国が庭に根付いたのだった。たった一輪だったが、それはそれは美しい花だった(画像をご覧あれ)。日を追って雪小国は美しく なった。淡いピンクの大小の花びらが波のように重なり合い、深い雪の中から生まれた生命力を上品に醸し出している。デジタルカメラで撮影し、パソコンに取 り込み、眺め入っている。
 わが家の狭い庭で、雪小国に特別な位置を確保するため、植木の配置換えをおこなった。故郷につながりのある草木がこれでまた一つ増えた。父 が持ってきた木瓜、南天、ヤマボウシは、もちろん特等席を占めるが、それ以外にも、小国の実家や山野からは、春蘭、木賊、ショウジョウバカマ、ヤブコウ ジ、中橋菫、などなどが庭にやってきた。そのうえ、今回は、町の木までがやってきたので、もういうことはないし、植えるところもない。

『小国文化』(第63号、小国文化フォーラム発行、2010年6月)

大変動期にある世界と日本経済


 世界と日本の経済は、「100年に1度の大不況」に陥っている。世界中で、年間5000万人が失業し、大手企業や金融機関も破綻し、一時的に国有企業になる、といった事態が進行している。
 震源地はアメリカである。世のため人のためになる物づくりよりも、右から左にお金を動かすことで、より大きなもうけを得ようとする経済を主 導してきたアメリカの「カジノ型金融経済」、日本名なら「博打経済」は、とうとう行き着くところまで行き着いて、破綻してしまったからである。アメリカで は、大手金融機関も、企業も倒産し、多くの人々が職と家を失った。こんなことは、戦後のみならず1930年代世界大不況以来初めてのことであり、「100 年に1度」といわれるゆえんである。
 「カジノ型金融経済」の被害に苦しむアメリカの人々は、自分たちをここまで追い込んだいままでの政権を拒否し、新しい政権を選択した。アメリカは変わりつつある。
 アメリカ発の大不況なのに、日本経済はアメリカ以上に深刻な事態に陥ってしまった。
それは、とくにこの10年間の「小泉・竹中構造改革」によって、大企業と中小企業、大都市圏と地方経済、さらに人々の間で、経済格差・貧富の格差が極端に拡大してしまい、多くの国民と中小零細企業は、不況に対抗する余裕を奪われてしまったからである。
 さらに、日本の経済成長は、外国、とくにアメリカへの輸出に頼った「外需依存」型のゆがんだ「経済成長」だったために、なんでも買ってくれたアメリカが大不況に陥ることで日本製の車も、電化製品も、機械も売れなくなったためである。
 ことほど左様に、世界と日本の経済は深刻な事態にあるが、一方で、新しい変化もはじまっている。
多分、今年中か、遅くとも来年には、日本経済は、中国に追い抜かれてしまう。そして、今後、20年以内には、中国はアメリカを抜き世界最大の経済大国となる。それにインド経済がつづく。
 21世紀の世界経済は、日本、中国、韓国、インドなどのアジア経済圏を中心にして動く新しい時代をむかえる。ヨーロッパ経済圏とアメリカ経済圏を中心に動いてきた世界経済の歴史に新しい一ページが開かれる時代がやってきつつある。
 世界の経済規模は、約5500兆円ほどであるが、アジア経済も、すでにその3割に達している。まもなく日本の経済規模を追い抜く中国の人口 は、アメリカのほぼ4倍の13億人である。急速に所得水準を上昇させてきた中国で、一家に一台の車を持つようになると、日本海を挟んだすぐ隣に、アメリカ 四個分の巨大市場が存在する時代がやってきた。
 日本の高い産業技術がほしい「世界の工場」中国、高品質の物づくりで市場のほしい「貿易立国」日本、この二つのアジアの巨人は、互いを必要としているようである。
ヨーロッパ連合(EU)は、二つの巨人ドイツとフランスが握手をして築き上げた。はたしてアジア連合(AU)は、実現されるのか。
 9月の総選挙で日本にも新しい政権が誕生した。日本は変われるのだろうか。

『小国文化』(小国文化フォーラム発行、2009年)

大 学 事 情ー昨日・今日・明日ー

 われらの学生時代は、キャンパスの中庭が舞台になり、さまざまなアピールが社会に対して発せられた時代であった。たしかに騒々しかった。まともに講義すら行われなかったし、出席する学生も少なかった。
 でも、大学で学ぶことをサボっていたわけではなかった。むしろ、社会や人生について、そして世界と平和について、一生懸命学んだ時代で あった。大学生協や神田界隈の本屋では、難しい哲学や社会科学の本が売れていた。自主的に学んだ若者たちは、社会に対して自分の意思を伝えようとしてい た。
 あれから40年近くの月日が流れた。いま、わたしは、東京から100キロほど離れた地方の大学に勤め、そこで経済学を教えている。将来教 師をめざす、どちらかといえば、真面目な学生たちに囲まれて、講義にゼミに、論文や教科書執筆に、日々、勤しんでいる。大学生協の理事長職も引き受けてし まった。
 でも、どこかがちがう。静かである。キャンパスを歩いても、立て看板が見えない。学生たちが集まって集会を開いたりしている姿など、どこ にも見あたらない。出席を取らなくとも、学生たちは、自主的に講義に出る。といって、生協や近隣の本屋で、教科書や参考文献がよく売れているわけではな い。そもそも書籍全般があまり売れない。バイト代は、ケイタイや旅行に遣う。
 今の学生たちに抜けているのは、社会に目を向けること、社会科学を学ぼうとすること、自分の意見を持って、社会に働きかけ、なにかを実践 することである。もっとも、これは、学生たちだけではない。ヨーロッパでは、老いも若きも自分の主張を掲げて街頭に出ているが、日本社会は黙っている。
 そうなれば、成長重視の企業社会日本だから、金銭や権力を持つサイドは大手を振って自分の主張を押し出してくる。大学は企業の研究機関に なり新製品の開発に取り組みなさい。社会科学よりも、理科教育と科学技術に力を入れなさい・・・仮に、そうやって高度成長を達成しても、社会は良くならな い。成長の成果は、よりよき社会を実現するよりも、さらなる成長のために配分される。時代閉塞社会日本。
 大学も、社会も、みな元気になるためには、自分たちで自分たちの未来を決めるということを、もっと強く主張し、実践することが必要な時代にいる。「自由」を手に入れたわれらが「団塊世代」よ、昔に戻って、もっと騒げ!未来はわれらのものだ!

(2008.8 「白門四八会10周年記念」誌)

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スクラップブック


 仕事のひとつになるが、内外の新聞・雑誌に目を通し、世界や日本の経済動向を調べている。
 目に留まった記事や論説は、コピーをしたり、切り抜いたりして、スクラップブックに貼り付けている。これが結構の仕事になる。もっとも、すべて自分でやるわけではなく、外国の新聞は、めぼしい記事を赤線で囲むことはやるが、切り抜きと貼り付けは妻に頼んでいる。
 他の仕事が立て込むと、スクラップづくりは一時止まるので、新聞の山が部屋に築かれる。それは、いつ読むのか、いつ切り抜くのか、と無言で問いかけてくる。そこで、やおら古新聞を広げ、赤ボールペンを持って経済記事を追いかける。
 いつものように、サーモンピンク色のイギリスの新聞(「フィナンシアルタイムズ」)を見ていると、突然、カシワザキという横文字が飛び込んで きた。中越沖地震の報道だった。「壊れた高速道路」、「閉鎖された原子力発電所」、という見出しのカラー写真が一面トップを飾っていた。もちろん、同じ日 付の日本の新聞は、もっと大きなカラー写真とスペースをさいて、マグニチュード六・八の震災を報道していた。
 だが、このイギリス紙「フィナンシアルタイムズ」は、ヨーロッパだけでなく、アメリカなど、多くの英語圏の国々に読者をもつ、長い歴史と影響力のある新聞なので、国際社会の目は、今回の中越沖地震をどう見ているのかが、とても気になって読み進んだ。
 やはり、被災した柏崎刈羽原子力発電所の問題に、紙面の大きなスペースがさかれていた。「日本の原子炉は、震度6強といった地震に持ちこたえ るようには建てられていなかった」、「活断層が施設の下を走っている」、「地震の後、日本は、原子力発電所を休止した」、といった見出しで報道されてい る。
 たしかに、世界中にはたくさんの原発が存在するが、なんといっても、地震の直撃を受けた原発は今回が初めてであり、そのことは、世界中を驚か せるに十分な出来事だった。しかも、活断層の上に原発をつくったということについては、原発の安全性を考慮したら、信じがたい行為であると見なしている。
 地震列島の日本に、原発をつくった電力各社と政府は、国際社会に対して、日本の原発の安全性について、説明責任を負ったことになる。今回は、地震が原因だが、原子力事故は内外で発生している。
 世界初の原子炉の重大事故は、1957年に、イギリス北西部のウインズケールの火災であり、その後、アメリカのスリーマイル島の原発炉心溶融 事故(79年)、旧ソ連のチェルノブイリの原発火災事故(86年)、などが代表的な原子力事故である。日本でも、1978年の東京電力福島原発事故以来、 関西電力、中部電力、北陸電力の各原発で重大な事故が全国的に発生し、東海村ジェ・オー・シー社の核燃料加工施設臨界事故(99年)、関西電力美浜発電所 の配管破損事故(2004年)などは、記憶に新しい。これに今回の中越沖地震による柏崎刈羽原発事故がつづいた。生物の遺伝情報を破壊し、発ガン物質でも ある放射能を無害にする技術を、人類は持っていない。だから、核廃棄物は、地中深く捨ててきた。
 自然を支配し、自分たちの都合の良いように造り替えてきたのが、人類と科学技術の歴史である。だが、もし、いまのような資源とエネルギー消費 がこのまま続くと、宇宙船地球号はやがて人の住めない星になってしまう。そのことは、すでに、1972年の「ローマクラブレポート」(「成長の限界」)に おいて、各国の専門家たちが指摘してきたことである。経済大国アメリカ並みのエネルギー消費をつづけるには、地球があと4〜5個も必要のようだ。
 これからも、原子力発電というパンドラの箱を開け続けるのか、それとも、エネルギー消費のあり方を含めて、未来世代に緑の地球を残すために、 世界のあり方を抜本的に見直すのか、持続可能な社会システムをどうやって作るのかーーわたしたちは、そんなのっぴきならない問題に直面しているようであ る。
 スクラップブックづくりは、いろいろなことを教え、考えさせてくれるので、時たま、「どうしてこんな作業を何十年もつづけてきたのか」と、自問自答を繰り返しながらも、やっぱり古新聞に、赤線を入れてしまう。

『小国文化』(小国文化フォーラム発行、2007年12月、第48号掲載)(やまだ ひろふみ、群馬大教授)

故郷をつなぐ架け橋

 青葉若葉が目映いばかりに輝く季節になった。
 こ の時期は、木々や草花の生命力に圧倒される。窓を覆うように広がるヤマボウシの葉は、降り注ぐ春の日の光を緑色に変える。もうシュンランは、楚々とした花 を覗かせている。ショウジョウバカマだって、若葉を見せる。ヤブコウジも、先端に小さな緑のつぼみをつけた。薄紫の花をつけたナガハシスミレは、もう盛り を過ぎた。
 わが家の狭い庭で、春の饗宴を繰りひろげるヤマボウシも、たくさんの草花も、じつは、みんな故郷の小国町の産だ。
 というのも、庭を彩るこれらの草木は、幼い頃、時間を忘れて遊び回った故郷の山に分け入って採集し、この庭に移植したからだ。だから、わが家の庭は、春夏秋冬、故郷の香りと色彩に満ちている。
 そこに、もう1匹、故郷の産が加わった。柴犬である。名前は、幸助(こうすけ)という。ようやく4ヵ月になる子犬の幸助は、元気いっぱい庭を駆けめぐっている。燃えさかる春の緑を上回るような生命の躍動を見せる。
 背 中と頭部が黒く、顔、腹、手足が茶色と白に彩られた柴犬(黒柴)幸助の生みの親は、故郷に住む弟とその愛犬である。幸助が、わが家にやってきた3月10日 は、父の83歳の誕生日であり、幸助の60日目の誕生日でもあった。日本海地方では、雪が1週間も降り続き、週間予想も翌日から雪になる予報がでていた が、その合間のこの日1日だけ、晴天が訪れた。父の誕生祝いと幸助を受け取るために、早春の晴天の関越自動車道をクルマで走った。
 さ すがに、あの悪夢のような中越大震災の爪痕は、すっかり補修されていた。久しぶりに、車窓に展開する上州と越後の山々を眺め、快適なドライブをした。小千 谷インターを降り、ちょっと寄り道をし、妻と一緒に美味しいおソバに舌鼓を打つ。家に到着すると、さっそく母から、「ソバなんか、うちでくえばいいこ て」、と小言を言われる。
 83 歳の父が、生後60日目の子犬と一緒に遊んでいた。どちらも、元気だった。父が長靴を履いて、雪かきをしている側で、子犬の幸助がはね回る。父は、雪かき に疲れて、何度も、一息つく。幸助は疲れを知らないで、走り続ける。これが、83歳と60日目の違いのようだ。田畑を覆う真っ白い雪原は、早春の陽光に輝 いていた。
 前 橋は、冬の日照時間が長い地方である。冬でも、田畑には、何かしらの作物が緑をつけている。故郷の田畑は、半年間働き、半年間は、雪の下である。多分、そ の分、故郷の田畑で採れた作物には、たくさんの滋養が詰まっているのだろう。もちろん、その滋養の中には、父母の汗も混じっている。
 子 犬の幸助が、前橋のわが家にやってきて、1ヶ月後、父母と弟たちが、様子を見にやってきた。すると、幸助は、ちぎれんばかりに尾を振って歓迎し、幾度も飛 びついては、母の顔をなめた。まだ、ちゃんと覚えていたのである。母は、感激した。これで、故郷とわが家をつなぐ架け橋がまた増えた。もっとも、幸助とい う名前も、実家の屋号である。

『小国文化』第45号掲載(やまだ ひろふみ、群馬大学教授) 2007年5月9日

中越大震災から1年

   -問い直される行政と経済大国日本-

 今 年の秋の刈り入れは、晴天に恵まれ、作業がはかどった。重い袋をトラクターから取り外し、田んぼのあぜ道まで運んだ。カントリーに持って行く小型トラック に乗せるのも、重労働だ。汗が噴き出る。その作業を小1時間もつづけると、さすがにバテ気味になり、あぜ道に足を広げて座り込み、肩で息をする。でも、な ぜか、満足感も感じている。
 現代社会が忘れかけた家族の共同作業のせいなのか、汗を流すことのない日々の仕事から解放されたせいなのか、稲穂の香りと青空と心休まる故郷の田園風景に癒されるのかー多分、そのすべてなのだろう。
 だが、この地方を襲った大震災を思い出すと、うれしさも中くらいなり、オラが秋、といった心境になる。
震度7の激震が故郷を襲ったのは、2004年10月23日(土)夕方5時56分だった。その中越大震災から1年が経過した。まもなく2回目の寒い冬がやってくる。今年は、初雪も例年より1週間ほど早かった。
 前 橋方面から県境の長いトンネルを抜け、関越自動車道を走ると、地震で崩壊し、陥没した箇所を復旧する工事に出くわす。故郷に近づくにつれ、ときどきクルマ がバウンドする。ところによっては、50センチほど陥没し、道路が波打っている。そこに分厚くアスファルトが敷かれ、路面が水平に保たれていた。
 秋 の空のもと、「日本一おいしいお米」のコシヒカリの刈り入れは、すでに終わっている。見通しのよくなった田んぼには、カラスやスズメたちの姿が点在する。 虫やカエル、ドジョウなどをついばんでいるようだ。収穫が終わった秋の日の田園風景は、地方社会のどこにでもみられる風景である。
 で も、日本の米どころは、大震災の爪痕を、ここかしこに残す。遠方の山々は、所々に山崩れを物語る茶褐色の山肌を見せている。集落のなかの生活道路には、ま だ亀裂が走り、陥没している箇所もある。応急措置か、砂利で亀裂を埋めていた。路肩も崩れている。車で通るには慎重になる。家屋の石垣や土手のくずれも、 完全には修復されていない。そこまで手が回らないのだ。
 人々 の暮らしは大変だ。衣・食・住といった生活の基本に支障を来す家族が大勢いるからである。倒壊を免れた家屋は、補修し、そこで暮らしが継続できる。でも、 修復不能な家屋は、住むことはできない。やむなく「仮設住宅」での暮らしを強いられる。1年たったいまでも、3216世帯、1万201名の人々が、仮設住 宅などでの避難生活を送っている。
 内 閣府によると、昨年度の災害で全壊・半壊した住宅は、約3万5000戸ある。そのうち、国の被災者生活再建支援制度による支援金を受けたのは、約3500 戸、被災者の1割にすぎない。しかも支援金はわずかであり、資金使途も賃貸住宅の家賃などに限定される。住宅再建には使用できないのだ。住宅再建に使用で きる公的資金といえば、県の提供する百万円などである。2000万円ほどかかる建築費からすれば、これでは住宅の再建など不可能である。
被災した家族の3割にあたる1000世帯が自力での住宅再建を断念した、という。現金収入の少ない地方社会で、二重の住宅ローンを組むことなど、到底できない。まして高齢者世帯なら、なおさらのことである。いまは仮設住宅でなんとかしのいでいる。
 でも、仮設住宅の入居期間は、2年間である。あと1年間しか住めない。その後、どうすればいいのだろうか。親戚縁者や個人の力では、やはり限界がある。
自己責任といった非情な市場経済の論理を、社会生活に当てはめるのは不可能である。国民の租税によって成立する近代租税国家である政府や地方自治体などの出番であり、その真摯な対応が急がれる。世界第2位の「経済大国日本」のあり方が問われてもいる。

2005年10月27日記

SWさんへの読書感想

 今日、本屋さんに注文していた本(丸山清枝『花の手紙—越後・妻有の里からー』)が手に入りました。小振りで、可憐な装丁で、タイトルと内容にふさわしいステキな本でした。越後の親しい地名や山野草が登場し、懐かしさを触発させてくれました。
 た ぶん、「故郷」というとき、人が心に思い描くのは、慣れ親しんだ故郷の自然—「ウサギ追いしかの山」であり、「小鮒釣りしかの川」であるようにおもいま す。暑い夏の昼下がりに蝉を求めて近所の山に入った光景、蝉を取り逃がした大きなタモノキの姿などがふと浮かんでくるからです。
 こ の本には、小国の山に分け入り、わが家に移植し、いま庭で可憐な花を付けている山野草のショウジョウバカマ(添付ファイル参照)も紹介されています。著者 の丸山さんが、この花にはじめてであったのは長岡の悠久山公園であったようですね(20ページ)。しかも、丸山さんもこの花を持ち帰ったと書いてあり、ぼ くと同じことをやっている人なんだ、と若干の親しみも感じました。ただ、ショウジョウバカマの花の特徴を表現するとき、「猿が腰をかける・・云々・・」と の指摘がありますが、ぼくなら、ショウジョウバカマの花は、「夏の夜に、子供たちの小さな指先ではじける線香花火のような花」と表現したいですね。
 と まれ、この本で、故郷の山野草と山河の世界に、しばし遊ぶきっかけを作ってくれた君に感謝しよう。ぼくの思いこみかもしれませんが、この春の訪れの陽気も あってか、君はちょっと疲れているのかもしれない。ぼくもかつて同じ体験をしたことがあるのでなんとなくそう思う。どうすればいいかは、人それぞれだか ら、なんともいえないけど、ぼくの場合は、そのとき感じるストレスを解消するために、もっと大きなストレスを自分にかけてやること(激しいスポーツや新し い仕事など)で、うっちゃったときもあったようです。
 さて、明日から、新学期がスタートし、あれやこれやの仕事が待っています。今月も一本の原稿の締切がありますが、これは商業誌の原稿なので待ったなし、もちろんバッチリです、そのはず、たぶん大丈夫でしょう。では、お元気で。

浅間山の噴火

 窓 のカーテンを引き、1日が終わり、夕食の支度がされていたとき、突然、西側の窓ガラスがガタガタと振動した。また、どこかで、だれかが、夏の名残の花火で もあげているのだろう、と思った。それにしては、時間が早すぎた。カーテンを開けて、近隣の花火の姿を追ったが、そのような気配はなかった。
 そ うこうするうちに、夕食も済み、ソファーでテレビをみていたら、浅間山の噴火のニュースが流れた。あの窓ガラスのがたつきは、ここから40キロほど離れた 軽井沢の浅間山の噴火のせいだった。かなり離れているといっても、近くの利根川の川岸に出れば、浅間山はよく見える。山頂からわき上がっているような噴煙 も確かめられので、そんなに離れているとは思えない距離だ。
 早 朝の散歩のたびによく浅間山をみてきたが、たしかにここ1年ほどは、山頂に雲がかかっているようだった。それは噴火活動が盛んになっていた証だったのだ。 おだやかな表情の美しい山も、内部にマグマをため、爆発のエネルギーを蓄えてきていたのだ。火山は、死んではいなかった。いまも、現役で、活動し続けてい た。
 数 百年、数千年の過去をたどれば、浅間山は繰り返し噴火してきた。そもそも群馬県の県庁所在地の前橋市そのものが、浅間山の大噴火で発生した火砕流が何度も 堆積した台地の上にある。いまも、利根川の河原に赤茶けた硬い岩石が、ところどころに顔をつきだしている。これは2万4000年ほど前の火砕流の堆積物と いう。とても固い。集中豪雨で利根川が濁流を集め、その岩石に急流が激しくぶつかっても、水の勢いを跳ね返し、数メートルも、水しぶきを上げている赤茶け た岩石の光景は、しばしば目撃された。あの岩石は、いま噴煙を上げる浅間山の噴火口からやってきた。
 そう考えると、2万4000年の時空は消滅し、現在の浅間山と赤茶けた岩石が一体化した。火砕流を40キロも広げるような大爆発はそうそうあるものではないだろうが、自然の驚異は思わぬところに隠れていて、突然顔を出し、びっくりさせられる。

2004年9月1日記

夏・水・少年の日

 こ の街に移住してきて、近所にプールがあることは知っていた。自宅から敷島公園を歩いて5、6分ゆくと、天井がガラス張りの50メートルプールと屋外の25 メートルプール、他に、飛び込み専用のプールや幼児用プールなど、水泳競技や夏の水遊びには恵まれすぎるほどの施設が整っている。
 いずれ、プールで泳いでみよう、と思いつつ日々が過ぎていった。転機が訪れたのは、ちょっとしたことで足先を損傷し、日課の散歩ができなくなったときだ。水泳なら足先が痛くとも、身体を自由に動かせるからだ。さっそく運動のために、プールに行った。
 入 口で、400円(夏場は200円)を払って、入場券を購入し、ロッカールームで水着に着替え、天井がガラス張りの50メートルプールに足を入れた。温水に しているといっても、やや冷たさを感じつつ、身体を水に浸し、ゆっくりと泳ぎだした。はじめは平泳ぎ。身体に水がまといつき、腕が水をかき分け、足で、水 を蹴る。地面を歩くのとはまったく違う非日常世界。いささかの緊張感もともない、気持ちも水の中にいることに集中し、精神が躍動し始めた。この爽やかな緊 張感はどこからくるのだろう。
 50メートルプールを往復する。平泳ぎから背泳にスイッチした。仰ぎ見るガラス張りの高い天井のそのまたはるかに上方に、夏の白い雲がゆったりと浮かんでいた。天空の白い雲をみながら、至福の時を感じつつ、背泳で泳ぎ続けた。
 水 に身体を浸す喜びと緊張感。見上げる空に夏の白い雲。この体験は、はるか少年の日の自分を思い出させた。夏になると、炎天下の渋海川で、夢中になって水と 戯れていた。友と競って泳ぎ、高い岩場から飛び込み、水中に潜って魚を探し、川底を探検し、ヤスでナマズをついた。川底の岩の下できらりと光るナマズの小 さな2つの目が印象的であった。その目のあいだをねらって、眉間にヤスを打ち込むのであった。そうしないと、力の強いナマズは、川底で暴れ回り、自分の身 体を引きちぎって逃げていってしまうからであった。楽しい日々であった。
 も ちろん、故郷の川は今も流れている。ただ、水量が少なくなり、川底に泥がたまり、流木にゴミがまといつき、もはや子どもたちに夏の水遊びの日々を提供して くれるには、あまりにも貧弱になってしまった。多分、全国の河川がそうだろう。経済成長を目的にした公共土木事業のため、ダムを造り、河床や川岸をコンク リートで覆い、水辺を壊し、少年たちを追い払い、魚たちも追い払ってしまったからである。
 室内のガラスの天井をもつ管理の行き届いた50メートルプールで、55才になった元少年が、それこそ久方ぶりに水に親しんだとき、過ぎ去った夏のあの感動的な水遊びの少年の日々がクッキリと思い出されてきた。

2004年7月28日記

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『瞽女おけさ』

「竹下玲子瞽女唄テープ」より

一、 はあー佐渡の金山鉱山祭の
  月と書いたる手ぬぐいはよ
  月に恐れてかむられぬ
  すっと行ってすっと帰りやなんのことない
  居続け打つから丸裸あらよいよい
二、 はあー竹と名が付きゃ寒竹、唐竹
  地区の篠竹 子竹 山竹 畑の畔の
  女笹 なんぞの子竹まで
  可愛い殿さなおたけ なあ かわいい
  はあ し畑の鞘豆 一鞘走れや 皆走る
  わたしや あんたに従いて走る
  あらよいよい
三、 ああ わしに会いたくば
  上州前橋 敷島河原の
  小砂利まじりの 荒砂持って来て
  わたしのお寝間の 三尺小窓の
  戸障子の間から
  姿かくしてぇ バラバラと撒きなよ
  小雨降るかと 出て待ちる

 この唄は、「小国文化フォーラム」のMT氏から紹介とお尋ねがあった。
 氏によれば、唄の中にある「上州前橋 敷島河原の〜」は、現前橋市敷島町周辺なのかどうか?とのお尋ねであった。果たしてどこなのだろうか?
  現敷島町周辺は、利根川の河原であり、かつて小出村の小出河原と呼ばれ、大正14年になって、敷島公園と改称された経緯があるようだ。多分、この時になっ てはじめて、「敷島」との地名が付けられたはずだから、この唄は、大正14年以降に歌われた唄なのだろうか? 

(2001年8月21日)

セミしぐれ

 夏の日、近所の公園を散歩していると、突然、セミの鳴き声が響いてきた。もう何年も、夏のセミの鳴き声を聞いていなかったせいか、どこからともなく聞こえてきたセミの鳴き声に触発されて、遠い少年の日の夏のセミしぐれの情景が鮮やかによみがえった。
 暑かった夏の日に、これでもかと暑さを倍増するように、四方八方から降り注いできたセミしぐれだった。
少 年の頃の夏の1日は、セミしぐれで明け、セミしぐれで暮れた。日中は、セミしぐれの中を、集落を流れる川に泳ぎに向かった。そして、友達と一緒に時間いっ ぱいまで水浴びをし、セミしぐれの中を帰宅した。その頃、ちょうど昼寝から起きた父母と一緒に、冷えたスイカをほおばった。
 そ して、時に畑仕事の手伝いをした。クワを握り、畑を耕している間も、セミしぐれは降り注いできた。畑の周りは、夏草がおおい繁り、頭上には、桐や楢の木な どがそびえ、その幹にたくさんのセミが留まり、お互いにこの夏だけの短い生命を讃歌するように大合唱に励んでいた。手も届くような高さで鳴いているセミを 捕まえようと手をかざすと、決まって顔に樹液をかけられ、逃げられてしまった。
 や がて、セミの鳴き声に変化が起こる。いままで、もっぱら優勢であったアブラゼミの鳴き声が徐々に弱くなる。かわって、甲高い「カナカナカナッ!カナカナカ ナッ!」というヒグラシの鳴き声が大きくなってくる。そうすると、まもなく日暮れがやってくる。夏の一日が終わったのだ。そして、家族は帰路につく。とき に帰宅が遅くなり、夜の薄闇があたりを包む頃になると、日中のセミしぐれに代わって、田んぼから蛙の声が聞こえてくる。セミしぐれの日中から、はっきり夜 の訪れを告げるのは蛙の合唱だった。

2001年7月30日記

ヒヨドリ夫婦の営巣と子育て観察日誌
庭の紅葉の木ではじまったヒヨドリの営巣(1)

 いつになく「ピィーピィー、キィーキィー」と、騒々しい小鳥の鳴き声が響いてきていた。この家に転居してきてほぼ一ヶ月という蒸し暑い7月半ばの午後の日だった。
 庭のサルスベリに止まったその鳥は、いささか尾が長いようだ。頭部の羽毛は、柳葉状に立ち、耳羽は栗色のようだ。図鑑などを調べているうちに、どうやらヒヨドリであることがわかった。ヒヨドリが、わが家の庭の紅葉の木で巣作りをはじめたのだった。
 い やはや驚いた。というのも、庭の紅葉は、大木ではない。ましてその枝振りは玄関から門柱までの通路にかぶさっているので、大人ならほとんど手の届く高さの 枝の下は、日に何回も家人の出入りがあるからである。朝は新聞を取りに、正午間近には郵便物を取りに、夕方は夕刊や娘の帰宅で人が行き来する場所だ。そん な場所に、ヒヨドリは巣作りをはじめたのだった。
 営 巣の作業は、1対のヒヨドリ夫婦の仲むつまじいばかりの共同作業のようだ。なにをするにも2羽で行動をともにしている一羽が営巣用の葉っぱや木の小枝をく わえて作業をはじめると、もう1羽は、隣のサルスベリの枝に止まってあたりを警戒し、猫などが現れようものなら、けたたましい鳴き声で緊急事態の発生を伝 えていた。作業が済むと2羽が同時に飛び立っていく。
 ほ どなくして、枯れた竹の葉や枯れ枝をくわえて、また2羽が一緒になって戻ってくる。1羽は監視役、一羽は営巣の作業に専念する。こんなことを日に幾度とな く繰り返しているうちに、3日目頃には、工事中の巣も姿形を整えてきて、どこから見ても、立派な小鳥の巣に仕上がった。

2001年7月17日記

ヒヨドリ夫婦との突然の別れ(2)

 それは突然の出来事だった。
 朝、 庭を横切って門の郵便受けまで新聞を取りにいった娘が、あわてた様子で、「お父さん、小鳥の卵が庭に落ちているよ。」、という。さっそく、紅葉の巣の下あ たりを見ると、たしかに小鳥の卵が割れて落ちている。巣のちょうど下あたりは、落下した勢いで卵の殻も粉々になり、卵の中身が黄色くはみだしていた。少し 離れた場所に、大きな卵の殻1つが転がっていた。
 それは、どうみても、ヒヨドリ夫婦が丹精込めて暖めていた卵に間違いなかった。巣作りが一段落した頃、多分、卵を暖めているのであろう、1羽は巣の中に座り、巣の端から少し長めの尾羽がはみ出していた。やはり、抱卵をしていたのだった。
 それにしても、またどうしてこんなことになってしまったのだろうか。しばらくすると卵からかえった幼鳥のかわいい声を聞けるのではないか、と楽しみにしていたのに。
 卵 の落ちてきた巣を見ると、端の方がわずかに崩れているようにも見えるが、巣全体は壊れていなかった。それに、落ちた卵はたった1つのようだし、多分、まだ いくつかの卵は巣にあり、ヒヨドリ夫婦もしばらくしたらまた帰ってくるにちがいない。そうだ、またあのにぎやかな鳴き声がわが家の小さな庭を包み込むだろ う。それまでちょっとの辛抱だ。
 だ が、あの元気なヒヨドリ夫婦は、2度と帰ってこなかった。何日待っても帰ってこなかった。一体、あの巣でなにが起こったのだろうか。そういえば、3〜4匹 の猫が、以前から庭を行き来しているのを目撃していた。あるいはあの猫たちの仕業だろうか。小鳥の羽は散らばっていなかったので、親鳥たちに被害はなかっ たはずだ。手を伸ばせば届くような庭先の木の上で、どんなドラマがあったのだろうか。

2001年7月30日記

引越騒動顛末記

 一 箱の重さは、15〜20キロ。ウントコショと持ち上げると、どっしりした重量が両腕にズンと伝わってくる。これが、書籍を引越用の小さめの段ボール箱に詰 め込んだ重さだった。6段の本箱で、こんな段ボール箱が、4〜5個できあがる。ということは、床にかかる本箱1つの重要は、およそ100キロであり、4個 本箱を並べると、400キロ近くの重量が床板にかかっていたことになる。そう考えてゾッとした。
 よくピアノは床を補強したピアノ床のうえに置くように、といわれるが、本箱4個分はそれよりも100キロ近くも重かったのだ。床板がひしゃげなくてよかった、と改めて思う。鉄筋コンクリートのマンションだから、耐久性が高かったのだろうか。
 で も、新しい住処は、木造であり、しかも設計図をよく見ると、2階の納戸や書庫の下は、リビングとダイニングであり、空間が広がり、2階を支える通し柱はな い。これでは、2階の納戸と書庫は、名前だけで、そこに重いものを押し込んだら、その重量を支える1階の柱がないのだから、当然、2階の床はひしゃげるこ とになろう。そんなことがわかったので、急遽、方針を変更し、重い書籍のたぐいは、1階にも運び込むようにしなければならなくなった。
 そ のうえ、中古住宅として最初に見学したときには、見落としていたのだが、押入の天袋から首を突っ込んで、2階の床を点検したとき、床を支える根太がゆがん でいたりした。ということは、2階の床面は、しっかりした平面とならず、多少とも波打つ状態にならざるを得ない。そして、実際にそのような状態になってい るため、歩くとギシギシ音がする。こんなことがわかったのも、引越間際の慌ただしさの中だった。
 そ れやこれやと各種の懸念がわきあがったが、大工の棟梁は、床が落ちることは「絶対ない!」と繰り返し断言するし、東京で年月を経た中古住宅に住む妹は、 「10年たってもこのくらいなら、状態はとてもいい」と助言するし、そんなことを言われ続けると、やがて、もう購入してしまったし、ローンも組んでしまっ たし、後は自分で日曜大工をやるしかないか、と半ばあきらめ、半ば前向きの姿勢をとるようになってくる。
 か くして、大量の荷物は次々に運び込まれ、2階も1階も、段ボール箱の山に埋め尽くされ、足の踏み場もない状態になる。建物の構造がどうの、重量の耐久性が どうのといった当初の懸念はどこかに雲散霧消してしまい、ただただ山なす段ボール箱の整理に追いまくられる。今日はこの部屋、明日はこの部屋と計画を立て るのだが、絶えず不確定要因が現れて、予定は未定になり、計画は未達成になる。ほこりにまみれながら、重い段ボール箱をあっちにうっちゃり、こっちにうっ ちゃりして時間が過ぎていく。
 な んとか暮らせるようになるのが、引越荷物を片づけ初めてからほぼ1ヶ月後というところか。これで、9回目かの引越にけりを付けることになるのだろうか。そ れにしても、引越をする度に、もうこんな騒動はこりごりと、いつも肝に銘じてきたはずなのだがまたやってしまったようだ。仮に、もう1度引越をするような ことになったら、それは、この世とおさらばするときであってほしいとおもう。

(2001年7月13日記)

新しい住処

 多分、50歳代になると、30歳代からの住宅ローンが払い終わる頃になると思われる。だが、「人皆直行、我一人横行」といった性格なのか、この歳になって新たに住宅ローンを組み、新しい住処で暮らすことになった。
 た しかに、これまでの官舎住まいは、いつまでも続くわけでなく、定年とともにそこを出なくてはならない運命にあるので、その時期をちょっと早めただけ、とい えないことはない。でも、いままでこれといった借金をしたこともなく、美しいとはいえないまでも、清く貧しい暮らしをしてきた身からすれば、一大決心であ ることもまた確かなのである。
 と もかくも、ことは、あれよ、あれよ、という間に運んでしまい、気が付いたときには、新しい住処に転居していた。なにがそうさせたのだろうか。この家は、職 場までの通勤途上にあり、歩いてこの辺を通ったこともあり、土地勘があったこと、緑が多かったこと、静かだったこと、利根川と公園に近く、散歩に適した環 境だったこと、などなど、気に入った条件を満たしていたせいだった。そして、もちろん、我が家の家計にとって上限に近かったが、価格がそれなりにリーズナ ブルな価格であったことによる。
 か くして、話は一足飛びに進み、不動産会社との交渉、住宅金融公庫をはじめとした関係方面への手配、各種の手続き、膨大な書類へのサインと印鑑、何度となく 足を運ぶ羽目になった手続き、などなどを次々になし終えた。といっても、これをやったのは妻であり、当方は言われるままにサインし、印鑑を押したにすぎな い。ともかくも、かくして、4月に、気に入った中古住宅の物件を発見後、ほぼ2ヶ月後の6月には、その住宅で暮らすようになった。
 住 み着いて1ヶ月たち、それなりに満足している。もちろん不満がないわけでない。いままで暮らしてきた鉄筋コンクリートの住まいと比較すれば、暑い、そして 冬がくれば、多分、寒いはずだし、外に出れば蚊に食われる、設計ミスか、採寸ミスもあるようだし、隣家の生活の気配がする、窓を開け放っておけば、大きな 声の話し声は聞こえてくる。ようするに、プライバシーが多少とも開けっぴろげになり、その分、外気や自然に密着した生活が始まった、ともいえるのだろう。
 思 い返してみれば、幼かった頃の田舎での生活は、このようなものだったような気がする。夏にはしょっちゅう蚊に食われていたものだ。隣近所の内輪げんかも聞 こえてきていた。もっとも、それ以上に大声を上げていたに違いないのだが。夏には、蝉しぐれが降り注ぎ、じっとしていても汗が額を伝わって地面に流れ落ち ていた。冬は雪が降り、閉め忘れた窓から掛け布団の上に雪が降り注いだりもした。無垢材を使用した床板は、あちこちでしなり、反り返っていた。すきま風 は、壁からも、床からも流れ込んできていた。
 家 の中には、ネズミもいたし、猫もいたし、蛇もいたし、ナメクジもいたし、もちろん、ハエや蚊、アブのたぐいは乱れ飛んでいた。牛もいたし、山羊もいたし、 鶏もいたし、ウサギもいたし、近所には、馬も、豚もいた。しかも、みな元気闊達で、大きなうなり声や餌を催促する声、いななき、時を告げる鶏鳴、犬や猫の けんかの声などが、四六時中聞こえてきていた。時には、晴れの日のご馳走のために、飼育していた豚や鶏などが屠殺され、そのときの断末魔のような緊張感あ ふれる大きな声が村中に響き渡るときもあった。
 こ とほど左様に、緑の山並みに包まれた山里の村には、いつも生命の輝きと自然の営みと人の暮らしが共存していた。それと比べれば、地方都市の公園や川辺の空 間に残された自然など、自然に似て非なるものといえるかも知れない。ただ、いまの住処が、かつて、日本の地方社会で営まれていた自然あふれる生活環境を想 起させてくれたことは、それだけで十分満足しなければならないように思われる。

(2001年7月13日記)

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 新しき1ページを期待していますーMTさんへ

 どういうわけか久しぶりに風邪をひいてしまい、早々に床についていました。いつものように、寝付きの読書をしていると、突然、原稿の締切を思い出し、あわててパソコンに向かい、拙稿をしたためています。
 『芸術村友の会』の関係者のみなさん、大変ありがとうございました。『へんなか』をはじめ、各種の出版物を通じて、郷里の歴史・文化・伝統・生活をわたしたちに伝えていただき、豊かな時間を与えてくださいました。
郷里を離れてもうかれこれ30年を越えてしまいましたが、縁あって隣県に暮らすことになりました。5月には、恒例となった田植えの手伝いに帰りました。もちろん、山菜取りと山菜料理も味わいました。
 14年間にわたって文化発信の貴重な活動をされてきた郷里のみなさんが、郷里の歴史に、また新しい1ページを加えてくださることに、大きな期待をよせています。

山田博文(やまだひろふみ・前橋市在住)

「セイヤー、セイヤー」

 夏が去り、ときどき、寒さを感じさせるような風に乗って、勇ましい「セイヤー、セイヤー」のかけ声が響いてくる。
 恒 例の秋祭りがはじまった。かけ声に宿る人々の熱気のためか、町の空気も、いくぶん、活気を取り戻したようだ。道ですれ違う若い衆の歩く姿も、今日は、いつ になく肩を左右に大きく振っているようだ。ハレの楽しい日なのに、真剣な顔つきで向こうから若者がやってくる。それがまた、祭りの緊張感を伝えている。祭 りの内側に入りこみ、祭りを自ら盛り立て、作り上げようとしているにちがいない。
 「だ んべえ踊り」で親しまれている前橋祭りは、10月半ばの土日の2日間実施される。音楽に合わせて、老いも若きも踊りまくる。どちらかといえば、中年の女性 の数が圧倒的に多い。
 子育てを終え、美容と健康のため、町の活性化のため、近所つきあいのため、などなどの理由で、大挙して参加しているのだろう。
 だ んべえ踊りは、激しい踊りだ。音楽に合わせて、絶えず飛んだり、はねたりの動作を繰り返すからだ。顔には、おおつぶの汗が光る。たぶん、この日のために、 長い間、練習を繰り返し、激しい踊りに耐えられる体力を養ってきたのだろう。笑顔で飛び跳ねる50歳代や60歳代、ひょっとするとそれ以上の年輩のご婦人 の姿とエネルギーは、だんべえ踊りの2日間しか見ることができないような迫力に満ちている。
 ときたま小中学生の一団の姿も見える。その真剣な顔には、大人と一緒に踊ることの誇らしさも感じさせるようだ。そして、このままずっと踊り続けるような錯覚を与えるほど、軽やかなステップを披露している。
街や暮らしが、老若男女のあらゆる人々によって営まれていることを、祭りの日は気づかせてくれる。

2000年10月15日記

秋を告げる風

 9 月も、もう1週間ほどで終わろうとしている。夜、カーテンを揺らして入ってくる風に、冷気を感じた。風に乗ってやってきた冷気は、心地よさではなく、寒さ を運んできた。そうなんだ。なにも、紅葉や、突き抜けた空や、虫の音からだけでなく、冷気を含んだ風に、寒さを感じることによっても、はっきりと秋の到来 が告げられるようだ。
 うんざりするほど暑い日々が続き、冷気を含んだ風に心地よさを感じている間は、まだ夏なのだ。ひんやりしたクーラーの風に、喜びを感じているとき、夏はまっさかりの盛夏となろう。1日のうち、朝に、夕方に、シャワーを浴び、汗を流すことで、夏を流していた。
 だが、秋は、突然やってきた。季節は、はっきりとめぐる。さっそく長袖のシャツを着た。長袖を着ることで、秋がよく見える。見えることで、いっそう風に冷たさを感じる。そして、秋が深まってゆく。
 盛 夏の日々には、つぎに秋がやってくることなど、感じることもできなかったし、考えてもみなかった。ギラギラ輝く太陽の下、畑でたわわに実る夏野菜は、夏の 強烈なエネルギーを吸収することで、鮮やかな色彩と風味を提供する。ナスも、キュウリも、トマトも、夏がくれた自然の賜物だ。朝、畑からもぎ取り、一口か じったときのパリパリ感は、はち切れんばかりの夏の生気の証明であり、元気そうな真夏の音でもある。そんなことをお盆に帰省した田舎で体験し、このときば かりは、夏野菜の美味をもたらしてくれた夏のエネルギーに、一瞬、感謝した。
 ま だ紅葉は見あたらない。ただ、木立からは一部の葉が落ちて、地面で枯れ葉になり、木々の根本に横たわる。そこを歩くと、カサコソカサコソと音を立てる。秋 は、耳からもやってくる。いくぶん葉っぱが落ちたことで、たわわに抱え込んだ葉っぱの緑の重さを脱ぎ捨てて、少し休息しているように見えるのも、厳寒の冬 の前の秋の訪れを告げているようだ。
 葉っぱが落ちた木立の隙間は、天から突き刺してくる木洩れ日の隙間でなく、天まで突き抜ける青空を眺めるための隙間になる。
 秋は、さまざまなかたちでやってくる。

2000年9月25日記

ヤマガラ

 小枝に3羽のヤマガラがならんでとまっていた。まだ幾分小柄のようだ。多分、ちょっと前に巣立ちしたのだろう。「ピィピイピイーッ」、と元気よく鳴き交わしている。
 この赤城山麓の公園は、雑木林や水辺が豊富にあり、豊かな自然を残している。腹部の赤茶けた色と黒い羽根とが対称的だ。頬に白い模様があるのも、元気そうでいい。願わくば、近辺の雑木林のなかで、豊かな暮らしを営み、生を全うして欲しいものだ。

「オーイ、マサトクーン」

 今 日も、聞こえてきた。「オーイ、マサトクーン」、「オーイ、マサトクーン」と呼びかけている。前の最上階の北側の窓から、顔を出して、少し離れて建つ後ろ の家の友達の名前を呼ぶ声だ。呼ばれたはずの「マサトクン」からの返事は、不思議に聞こえてこない。返事をしているのだろうか?あるいは、母親にでも、 「大きな声を出すと近所迷惑だから、声を出さないで、手でも振りなさい」とでもいわれているのだろうか?
 呼 びかける側の学齢前の少年は、元気だ。しかも、山びこのように、少年の妹がすぐに続けて、同じ呼びかけを繰り返す。「オーイ、マサトクーン」、「オーイ、 マサトクーン」、「きょう、あそべる?」、「きょう、あそべる?」・・・まるで山びこのようだ。違うのは、後の方の幼い妹の声が、前の兄の声より、幾分オ クターブが高いことくらいで、正確無比に、兄の呼びかけを繰り返す。しかも、兄以上に元気よく。しばらく、この呼びかけが繰り返される。
 この子たちの母は、ひょっとして朝の食事の後片づけや掃除に忙しいのだろうか。幼い兄弟の朝の楽しそうな日課が、そのようなわけで、辺り一面に響きわたる。

2000年10月10日記

冬枯れの赤城山

 久しぶりに冬の赤城山を歩いた。葉を落としきった木立は、根本まで冬の日差しに包まれていた。落ちた葉は深く積もり、歩くたびに、ガサゴソ、ガサゴソ、と大きな音を立てた。木立のあいだから抜けて見える空は、青かった。
 暦 は、2000年の1月末。さすがに北斜面の日陰には、まだ雪が残り、白い帯となって山裾に模様を描いていた。日陰は、いかにも寒そうだった。冬の陽光を求 めて、南斜面を歩いた。あちこちで雪解けの水を集めた小川が流れ、至る所で、水しぶきがあがっていた。水しぶきは、氷結し、川面に表出した石や木の根っこ を、白い氷で包んでいた。氷柱が幾層にも重なって、さかんにしぶきを受け止めていた。多分そうやって、気温が急激に下がる夜半に、氷の厚い被いが作られて いくのだろう。
 時 折、向こうの車道からひびいてくる車の音は、冬枯れの赤城にはふさわしくない騒音だが、それを除けば、冬枯れの晴れ渡ったこのひとときは、凛とした冷気の なかで、静かに、晴れやかに、心を癒し、解放してくれる。頭上をとびかう小鳥たちの声と羽音は、静まりかえった冬山の生命の響きのようだ。
 見 上げると、あちこちに、切り立った峰が行き交っている。葉を落とした大小の木立が、刈り込んだイガグリ頭のように、冬山の稜線を縁取っていた。赤城山は一 つの山の名称ではなく、荒山、地蔵岳、鍋割山など、いくつかの山々の集合体の名称だ。そのため、いくつもの峰が重なり合ってそびえている。山裾は、なだら かだが、上に登ってくるにつれて、入り組んだ姿を見せる。それがまた、赤城の山懐の深さを醸し出しているともいえそうだ。
 前 橋の街の中心から20分ほど車を走らせると、赤城山の中腹までやってくる。自宅からほぼ16キローこれが車のトリップメーターで測定された距離だった。こ こには、自然を観察したり、親しむために造成されたいろいろな「森」が、遊歩道で連なっている。「昆虫の森」は、冬のあいだは冬眠中のようで、クワガタや カブト虫たちも、土のなかや枯れ葉の下で春を待っているようだ。水生昆虫の住処と思われる池は、ところどころ氷に覆われていて、とても寒そうだった。いま はシンと静まり返っている森も、夏になると、大勢の子供たちの歓声に包まれ、にぎわいをみせているにちがいない。
 そ んなことに思いをはせつつ、さらに奥に踏み入っていった。どうやら、道をまちがえてしまったようだ。歩道と思った道は、道ではなく、雨期になると雨を集め て流れる川床だった。しばらく、迷い道を楽しんだが、そうともしておれない。不安ではないが、なんとなく気がせく。もと来た道まで引き返して、そこからし ばらく歩いたら、ようやく広い道まででた。
 さ て、この道は、下っていったらよいのか、登っていったらよいのか。決心して、登っていった。見晴らしのいい場所に来て、ようやく自分の位置がわかった。起 伏に富んではいたが、狭い範囲をあっちに行ったり、こっちに来たりしていたことがわかった。知らない山中では、多分、こうやって道に迷い、場合によって は、遭難してしまうのだろうか。自宅から、わずかの距離にある赤城の森で、自然の懐の深さを垣間みて、ちよっとうれしくなった。また出かけてくることにし よう。

2000年 1月 30日 記

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パワーブックG3

 モー バイルタイプのパソコンを注文したが、パソコン部品の生産拠点になっている台湾で大地震が発生したこともあり、さていつ届くのやらと案じていた。だが、大学 で大量にまとめて発注しているせいか、思いの外早めに手にすることができた。ポータブルなパソコンがあれば、今まで以上に快適な仕事ができるのではないか と楽しい空想に浸り、かたやほんとに年内にくるのかしらと危ぶみながら待ち続けたのが、マッキントッシュのPowerBookG3だった。
 手 元に置いてあれやこれやといじってみて、ほぼ1週間たった。3年前に設定を試みて失敗に終わり、ながくて暑い夏の汗まみれの作業だけがやけに印象に残って いるパソコン通信も、アッという間に実現できたことには、さすがにビックリした。これは、日進月歩の技術進歩であるにちがいないが、パソコン通信がパソコ ンの売り上げに大きく影響するといった昨今の「情報化時代」のニーズを反映したせいでもあろう。
 い ずれにせよ、自宅に居ながらにして、自分の膝の上のパソコンから世界中のどのホームページにも入ることができ、また世界に向かってメールを発信することが できるようになるなんて、これはやはり驚異的なことといわなければならないだろう。もちろん、大学の研究室の自分のパソコンに届いているメールを見ること も、必要な返信を送ることも、いとも簡単にやってのけてくれる。この小振りなパワーブックは、いつでも、どこでも手元に置くことができる。冬の寒いときに はコタツのテーブルの上に、就寝直前でも枕元に、こちらがパソコンのあるところまで出向かなくとも、パソコンの方からこちらの身についてきてくれる。しか も、その小さな内部に「世界」を引き連れてやってくる。
 た だ、世界を相手にした情報の相互交流が可能になったといっても、その「情報」とは、無限に存在する自然界や人間社会からの生の第1次的な情報のなかから、 何らかの価値判断によって切り取られ、コンピュータの中に入力されることによって目にすることが出きるようになった、ごくごく限定された「情報」であるこ ともまた確かである。世界と自分がインターネットを通じて対峙しているといっても、その「世界」とは、きわめて限定された、自然界や人間社会から見れば、 とても小さな小さな人工的な「サイバー空間」にすぎないことになる。それ以上でも、それ以下でもない。こんなところに、「情報化社会」の特徴と問題点が示 されているようだ。
 とまれ、このパソコンでどのような仕事ができるか、いやどのような仕事をなしえたか、それが問題だ、ということになるのだろうか。

(1999年 12月 3日記)

ホタルの光に輝く故郷

 久 方ぶりにホタルをみた。何十年ぶりだろう。多分、小・中学生以来のことだろうから、40年近く前になろうか。いや、その後、旅行などで、ホタルのいそうな 山間の清流に行った経験がないとは言えないので、それほど昔のことではないかもしれない。ただ、今夜みたホタルがあまりにも印象的だったので、つい幼かり しころにみたホタルの群舞を思い出してしまったせいなのかもしれない。
 夕 方、暑さを逃れ、外に出て、ホタルの放つ青白い光に魅了され、暑さを忘れて、みとれていたことなど、とうの昔に忘れていた。夕涼みの折り、暗やみに飛び交 うホタルの群に出会うと、「ホーホー、ホタル来い、こっちの水は甘いぞ、ホーホー、ホタル来い。」とうたいながら、群舞するホタルをもっと近くに呼び寄せ ようとしたものだった。ドウデラの山を背に、いまはなき増田小学校方面に開けた中空をたくさんのホタルが飛び交っていた。時たま、苔野島や山野田方面に向 かうクルマのライトが闇を切り裂いて通り過ぎていった。漆黒の闇の中で点滅するホタルの光は、たとえようもなく感動的で、幼い私を虜にした。それは、闇の 中で、怪しく輝く宝石のようでもあった。近づいてきたホタルをそっと手に取り、逃げないように両手でかこって、指のすき間から覗くと、自分の手のひらにい るとも知らずに、光り輝きつづけるホタルに一層感動した。ホタルが、手のひらで、ボウーと輝くたびに、その光に照らし出された自分の鼻先や手相や指紋が浮 かび上がっては消えた。
 い ま思うと、残忍なことをしたようだが、大きなホタルを捕まえて、手で握りつぶしたこともあった。すると、光を放っていたホタルのお尻は、光度を落としなが らも、そのまま光りつづけていた。すりつぶしても、まだ光っていた。そして、ちょっと苦味のするようなほのかな匂いがした。ホタルを育んだ小川は、夜も、 ガボガボと音を立てて流れていた。ホタルの死骸を洗い落とすと、それでも、わずかに光を放ちながら、夜の水のなかに消えていった。
 30 万人の住む地方都市・前橋で、ホタルをみたのは、幸運というほかない。しかも、ダウンタウンのど真ん中、県庁舎のほぼ真下の人工的な小さなせせらぎが舞台 だった。前橋公園の「さちの池」から流れ出るせせらぎで、ホタルを育てる会のボランティア活動の成果のようだ。川幅ほぼ2メートル、全長70〜80メート ルほどで、利根川に注ぎこむ。もっともここで出会ったホタルは、たった1匹で、しかも、一瞬の瞬きであった。夜の闇のなかで、一度光っただけだった。で も、その一瞬の輝きは、記憶の底に眠っていた故郷のホタルの群舞を鮮やかに呼び戻してくれたのだった。小国町のこと、原集落のこと、家の前を流れる小川、 セミをとって遊んだドウデラの山、木造の体育館と階段の軋んだ増田小学校、苔野島や山野田に通じる三叉路、観音堂広場での盆踊り、などなど。
 ダ ウンタウンの夜の公園の小さな自然の営みは、地方都市に暮らす多くの人々に、大きな感動を与えたようだ。新聞の地方版も、そのことを伝えていた。21世紀 を目前にして、いま、地球の環境問題や大規模開発の是非が問われている。都市の公園の一角で、夏に輝くホタルたちは、その一瞬の瞬きを通じて、何にも増し て環境問題や自然の大切さを、多くの人たちに語りかけているようだ。
 故 郷の小国町でも、時折、大規模開発のうわさを耳にする。21世紀に思いをはせると、大規模に開発された小国町はなぜか似合わない。むしろ、東京や関東圏か ら気軽に足をのばせる豊かな自然の故郷、清流が行き交い、ホタルが乱舞し、緑にあふれ、日本一おいしいお米や野菜を作り、四季を通じて楽しみを与えてくれ る故郷、失われつつある自然やそこで育んだ特産物をてんこ盛りにして差し出し、人々を魅了する故郷・・・そんな小国町が、21世紀にとてもよく似合ってい るようだ。経済的にみても、将来にわたって、首都圏などの巨大マーケットを振り向かせるのは、故郷の特産物やそれを育む豊かな自然の魅力にある、といえる からである。
 今夜みたホタルの光は、一瞬の瞬きではあったが、それは、21世紀を展望した故郷の将来への大きな期待をこめた輝きだったように思われてならなかった。(「友の会便り」第5号に掲載)
( やまだ ひろふみ ・前橋市在住、「友の会」会員、群馬大学教育学部教授・商学博士、電子メールアドレス=yamachan@edu.gunma-u.ac.jp )
(1999年6月4日)

川に行く日々

 夕方、いつものように歩数計をつけて、近くの川原にやってきた。病後の日課として、ほぼ7000歩見当を歩くことにしたので、夕方を散歩の時間に充てるときがおおい。蒸し暑い日には、心地よい川風が吹き抜けていく。少し歩いてきた身体には、一層涼しく感じられる。
 川 原の岩に腰を下ろし、川面をじっとみていると、まだ陽が高いせいもあって、足元を小さな虫の死骸が絶えることなく流れていることがわかった。それを発見し て、少し驚いてしまった。小さなころ、川幅や水量がいまの前橋付近を流れる利根川ほどの故郷の川は、わたしの遊び場だった。通称「大川」といったが、小国 町を南北に貫いて流れる渋海川である。夏ともなると、川に行かない日はなかった。けれども、川面や水中に、このように絶えることなく虫の死骸が流れていた とは、まったく気づかなかった。これは県境の深い山々に水源を発する利根川ならではの現象なのだろうか。いや、そうではないだろう。40年ほど前のふるさ との川も、緑なす深い山々を縫って流れていたからだ。
 多 分、これだけの虫の死骸を流すことで、豊穰な大河は、数々の水生生物や魚たちの生命を支えていくことができるのだ。そんなことを考えているいまも、頭上を たくさんのコウモリが飛び交っている。川は、水の流れで生命を育んでいるだけでないようだ。川風は、その風の中にも、たくさんの虫たちを抱え込んでいるに ちがいない。それを知っているコウモリたちは、こうして夕方になると、集団をなして川面や川原を飛び交い、われ先にと、夕餉の御馳走にあずかっているの だ。
 も うしばらくすると、アユ釣りが解禁になる。そうすると、いつもやってくる川原は、釣り人達でにぎわう。アユは、川虫ではなく水中の石に付着したコケを食べ る。清らかな水を通してきた太陽光線が水中でコケを育み、アユはそのコケを食する。アユの友釣りは、縄張りを守ろうとするアユの習性を利用した釣りだ。日 ごろ、散歩にやってくる川では、たくさんの命の営みが絶えることなくつづいている。
 座っ ていた岩から腰を上げ、草むらを横切ろうとしたら、突然、1羽の鴨が慌てて飛び立った。バタバタッと、大きな羽音を出したので、びっくりしたが、びっくり したのはこちらだけでない。鴨の方は、夕方の静寂を破る不届きな族の闖入に驚いたことであろう。そういえば、昼間は、鴨だけでなく、川鵜も、川面に付きだ した岩の上から魚を狙っていたが、川鵜は夕方どこにいったのだろうか。
 ま もなく榛名山の向こうに、赤い大きな夕日が沈もうとしている。中央大橋にかかる歩道橋までやってきて振り返ると、夕日が川面に反射して長く尾を引きながら ユラユラと赤く揺れていた。もう、空中を飛び交うコウモリもみえなくなった。夜のとばりが下りた川原や水中では、生きものたちの夜の営みが、いつものよう に絶えることなく繰り返されているにちがいない。

(1999年5月17日記)

川辺の散策

 朝 焼けの美しさにつられて散歩にでた。台風一過、久しぶりの抜けるような青空だ。官舎のある平和町を抜けて、利根川をめざす。早朝の散歩は、すがすがしい。 10分程歩くと、利根川だ。新潟県との県境に水源をもち、途中たくさんの支流を集め、千葉県の銚子で太平洋に注ぎこむ全長322キロの大河だ。坂東太郎と いわれる大利根川の規模には比ぶべくもないが、それでも、故郷の渋海川は、幼子のわたしたちにとって大川だった。よく渋海川で遊んだ。そのせいか、いまな お水辺は大好きである。だから利根川周辺は、わたしのお気に入りの散策コースになっている。
 い つものように、川辺に立つグリーンドームの階段を上ると、今朝は、赤城山と榛名山がくっきりとみえた。山に囲まれた小国町で育ったせいか、まわりに山が見 えると、安心する。そういえば、大正時代にこの前橋を訪れた小国町出身の歌人小川水明が、上州三山のこの眺望を歌にしていたー「赤城、榛名、遠く妙義の 山々の峻りて霜の白き前橋市」(和久利誓一編『小川水明歌集』短歌新聞社、104ページ)。故郷の歌人が、ほぼ80年も前に、いまわたしの暮らしている前 橋の地に立って、おなじような景色に見とれていたことを思うと、感慨深いものがある。歌中に、「霜の白き前橋市」とあることから、小川水明の来橋は、冬の 寒い日だったようだ。
 ドー ムの階段を下りて、川辺の広い駐車場に立つと、どことなく様子がおかしい。あざやかなグリーンだった芝生は、泥をかぶって姿を消している。そこら中に植木 が根っ子を見せてころがったり、草木がなぎ倒されている。えぐりとられた植え込みの穴には、濁った水たまりができ、その水たまりの中で、たくさんのハヤが パクパク口を開けて泳いでいる。この川辺の駐車場は、昨日、あふれる洪水に埋まり、川幅を増した利根川の川底になっていたのだった。すぐ近くの県庁の駐車 場でも、80台ほどのクルマが濁流に飲み込まれて、川下に運ばれてしまったそうだ。1981年にも、洪水で、20台ほどのクルマが流されたそうだ。わずか 2日ほどの大雨なのに、あふれかえった濁流は、川辺の風景すら変えてしまうほどの力をもっている。まさに自然の脅威だ。
 水 かさが減ったとはいえ、利根川には、まだ濁流が渦巻いていた。はて故郷の渋海川は、どうだったのだろう。台風は、故郷にも大雨を降らせたはずだ。濁流があ ふれかえって、刈入れ前の田んぼに押し寄せるようなことはなかったのだろうか。幸い、今年の刈入れは、台風前に終わっていた。父の英断に台風が除けていっ たようだ。手伝いには行けなかったが、比較的豊作だったようだ。また今年も、父の作ったおいしいコシヒカリが、わが家の食卓にのぼる。願わくば、いつまで も、こうしてコシヒカリを作り続けていてほしいものだ。 (「友の会便り」第2号に掲載)
( やまだ ひろふみ 「友の会」会員、群馬大学教授、前橋市在住、電子メールアドレス=yamachan@edu.gunma-u.ac.jp )1998年9月17日記

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お盆ー民族大移動

 今 年もまた日本列島には、恒例の「民族大移動」のシーズンがやって来た。北海道から沖縄まで、東西南北どこにいても、この時期になると、故郷の生家をめざし て、家族単位で日本列島を移動する。北海道の出身者が沖縄から帰省(逆もまた眞なり)するとなると、ことはそう簡単ではない。もちろん、移動自体は、電車 にせよ、飛行機にせよ、いとも簡単にできる。だが、友人がいうには、その費用が半端ではない。家族そろっての帰省は、夏のボーナスを使い切ってしまうよう だ。それでも、やっぱり、お盆には故郷へ帰る。
 もっ とも、家族単位の移動といっても、子どもたちが両親と一緒に旅行を楽しむのは、せいぜい中学生までだ。それ以上の年頃になると、受験があったり、友達との 約束があったりで、家族はバラバラになってしまう。バラバラになった家族がまた集い、一緒になって旅行をするのは、成長して成人になり、ファミリーをつ くったときだ。でも、旅行先は、もはや、田舎だけではなく、海外であったり、避暑地であったりする。故郷は、自分のものでなく、父や母のものになってし まっている。
 か たや、都会に出てきて、年老いて、故郷に帰省できないようになると、お盆中であっても、都会に残る。人々がこぞって都会を脱出したせいか、車の排気ガスが 少なくなって、まばゆいばかりの美しい大都会の青空が久方ぶりに広がっている。都会に出ていった戦後世代では、もう2世が中年の域に達し、3世も成人にな るような時代がやってきた。そうなると、お盆中の「民族大移動」は、なくなってしまうのだろうか。それとも、ルーツを訪ね、お墓参りをする風習は、これか らもつづいていくのだろうか。
 そ れにしても、暑さの残る日々に、大勢の親戚縁者を受け入れる田舎の苦労と多忙さは、たいへんなものだ。いつにないほどのあたりのにぎわいが、晴れの日々が やってきたことの楽しみを告げたにせよ、久方ぶりに肉親の元気な笑顔にまみえたにせよ、大挙して訪れた大家族の世話は、大仕事にちがいない。故郷を離れて 暮らすものの一人として、感謝の気持ちを記しておこう。

(1998年8月11日記)

田植えと友人

 「一 生に一度でいいから、田植えというものをこの手でやってみたい」と、友人が唐突にいいだした。5月連休前の研究会が終わり、雑談の後、友人の研究室を退席 しようとしたときだった。友人は、地域経済論を専攻しているので、農村地域研究の一環といえばそれも不思議ではない。が、どうやらそうではないようだ。
 そういえば、わたしの田舎はコメどころの新潟県であること、故郷では、父母がいまも田畑にいそしんでいること、自分も、五月の連休には、田植えの手伝いに行っていること、などをこの友人に話していた。大都市生まれの友人は、わたしの話によく耳を傾けていた。
 は なしはすぐにまとまった。5月3日の早朝に、友人宅にクルマを着け、そのまま一緒に関越自動車道にのり、友人とわたしと妻の3人は、2時間後には、田舎の 玄関先に到着していた。お茶を飲んでから、さっそく山菜とりに山に分け入った。山野田近くの道路際で山菜をとりながら、この先にある「小国芸術村」の話を した。すると、この友人の話は具体的で、行ってみてきたようなことをいう。やっぱりそうだった。もう5〜6年前に、友人は、山野田も訪ねていたし、小国和 紙の工房も訪ねていた。ここに来るまで、本人も気づかなかったのは、わたし同様、かれもかなりの方向音痴だったからである。
 生 まれも育ちも大阪市で、その後、群馬県下の大学に勤めていた友人が、わたしが遠く故郷を離れていたときに、故郷の小国町を訪問していたことは、新鮮な驚き だった。タラの芽をとりながら、話を聞いていた母も、弟も、びっくりした。「小国芸術村」の存在は、近隣や全国に、小国町の存在と街興しの情報を発信し、 目に見えぬところで、着々と成果をあげてきていた。
 山 菜とりは、プロともいえる母や弟も一緒だったので、盛況だった。足が痛いといっていた母も、山に入ると、痛さを忘れた。友人も満足した。夜の宴も、盛り上 がった。翌日は、田植えだ。機械の後に入り、友人と並んで田植えをやった。田んぼ特有の泥に、足を取られていた友人も、だんだん上達していった。スピード もついた。
た しかに、減反などの農業政策は、いろんな問題を抱え込んでいる。市場の論理で日本の農業を裁断することは、日本の文化や国土や治山治水の伝統と技術やを壊 してしまう危険性をもつ。アメリカの尺度で、日本の農業と農村は測れない。現代日本の経済と社会が、世紀の転換点にあることはまちがいない。問題は、転換 の内容である。トップダウンではなく、総意を集めたものなら、そう大きな誤審はしない。これが歴史の教訓であろう。とまれ、田植えをやって、汗をかくこと の喜びは、友人だけのものではなかった。
 後 日、わたしの研究室のパソコンに、友人からの電子メールが届いていた。小国での田植えは、「一生の記念になった」、「自分のゼミの学生に小国で田植えを やった話をした」、すると、「自分も小国の出身だ」、という学生がいた、しかも、その学生は、わたしの弟の同僚の同期生だった。
 今年の田植えは、いろんな出会いのチャンスを提供してくれたようだ。
(やまだ ひろふみ 「友の会」会員、群馬大学教授、前橋市在住、電子メールアドレス=yamachan@edu.gunma-u.ac.jp)(1998年5月18日、『へんなか』20号掲載)

前橋の初雪

 初 雪が降った。夜半になって、道路も、街路樹も、植え込みも、雪の綿帽子をかぶった。そこだけポッカリと街灯に照らし出された空間に、空から雪が絶え間なく 落ちてきて、灯火の下で積もっている。「ワッ!雪だ。」。雪をみると、雪国育ちの身にとって、なぜか、気持ちがウキウキしてくる。
 さっ そくドアを開けて、夜の雪の世界を歩き回った。雪はなお、降り続いている。しばらくして、傘を持つ手に、降り積む雪の重さが伝わってきた。かなり重くなっ てきた。その感触に触発されて、故郷の冬の情景が思いだされてきた。登下校の傘を持つ手に、降り積む雪の重さは、幼いときには、これで結構重かった。越後 の雪は、湿り気を含んでいるため、ぼたん雪のように、ボッタリと傘にへばりつき、いっこうに滑って落ちないからだった。傘は、放射状の骨組みを残して、布 地が垂れ幕のように下に膨らんでくる。そうなると、頭部で傘を支えることになる。上州の前橋の雪も、故郷の越後の雪と同じだった。
 故 郷の越後から三国峠のこちら側に移り住んできて、はじめての冬は、とても温かだった。多分、いままで青森という北国の寒い地方に暮らしていたせいなのだろ う。そういえば、引っ越してきた夏の暑さといったら、酷暑のことばにふさわしかった。ほぼ700キロも南下したわけだから、その気温差は、夏にそのままプ ラスされたわけだ。くわえて、湿度が高いわけだから、体感温度は、いっそう上昇し、久方ぶりの酷暑の夏になった。
 そ して、いま、雪のなかを歩いている。夜の雪は、とても幻想的だ。見上げるケヤキの大木の1本1本の枝に、雪がまといつき、街灯に照らし出されてその先端ま で白く輝いている。夜空いっぱいに広がった白い大木は、歩道に立って見上げる僕を真上から包み込むように見下ろしている。広瀬川沿いのわずかな空間に残さ れた植え込みや樹木は、四季折々に自然の移ろいを楽しませてくれる。
 だ が、今夜の雪景色は、飛びきり感動的だった。なぜだろう。ライトアップの効果なのだろうか。本来、夜は、暗くてなにもみえないはずなのに、そこに人工的に 光を当てることで、隠されていたはずの自然の造形を人為的に切り取ってみせてくれたからなのだろうか。多分、そうかもしれない。ただ、雪国育ちで、雪の苦 労をしてきた体験が底にあり、雪のつらさを十分知っている自分がいたのに、今夜の雪は、そんな苦労にまとう生活の中の雪ではなかったことも確かである。む しろ、雪国を離れて関東の地に移り住んで、生活とは異次元の美しいものを美しいと思う観賞の世界の雪景色だから、あるいはその分、気楽に感動できたのかも しれない。
 ふるさとを後にして、ほぼ30年間の時間が流れ去ったことで、少年の頃の雪国の暮らしの辛さは、だんだん忘却の彼方に遠のいていってしまったのだろう。

(1997年1月5日記)

夕 陽

 北 国の冬の日暮れはすぐやって来る。午後4時を過ぎれば、もう夕闇がうっすらとあたりをつつみこむ。ついさっきまで青空が広がっていたのに、一瞬にして真っ 赤な夕陽の世界に変わる。そして、すぐに暗い影が、野山も街も人も、すべてを飲み込んでいく。暗い情熱にたぎる闇の力が、すべてを覆いつくすように。
 一 瞬の変化は、あざやかでもある。窓から外を見ていると、そこは、ちょうど真っ赤な夕陽の世界だった。窓の下からつづく耕された畑も、採り残され、しなびた 野菜も、道路をはさんで、いまは放置されたままのかつての牧草地も、さらにその向こうの高台の住宅地も、みな真っ赤な夕陽につつみこまれていた。そしてす ぐに、スポットライトの色が変わったように、暗い影につつまれた。薄い墨を流し込んだような色彩が広がってきた。夕陽によって照らしだされた色彩の変化 は、目前の小春日和の穏やかなぬくもりの世界を、暗く、冬の寒さ厳しい世界に引き戻してしまった。北国の街に、凛とした寒気が立ち上がる。
 家 のなかで冬の寒さにつつまれながら、窓を通して遠方をみると、向こうの高台の街の、はるか上空に浮かぶ雲は、そこだけが別世界のように、赤い夕陽を一身に 集め、赤く輝いている。その上には、まだ青い空が広がっていた。青い空と赤い雲が、冬の夕刻に、あざやかなコントラストをなしていた。
 寒気が忍び寄ってきた部屋からみると、それは、天空に描かれた冬の絵画であった。わずかな瞬間を惜しむかのように、生命がぶつかりあい、火花を散らし、やがて闇につつまれる直前に、激しく燃焼しながら、青と赤の色彩をあたりに放つ生命力溢れる絵画だった。
 し ばらくすると、天空の冬の絵画も、まもなく姿を消した。あたりは夜のとばりにすっぽりつつまれた。夜の闇に浮かび上がってきたのは、高台の街の家々の窓の 明かりだった。冬の夜の澄み切った空気をつらぬいて、きらめく星座のように、いくつとなく光をともす無数の小さな窓だった。白、黄色、緑、などの小さな明 かりは、人々の生活の営みのたしかな証明にほかならないが、それらの無数の明かりは、寒空に逆らって、温かい光をともしつづけている。さきほどまで、あた り一面を照らしだしていた生命力に満ちた大きな真っ赤な太陽は、夕刻をさかいに、色とりどりの無数の小さな窓の明かりに席をゆずっていた。

(1995年12月3日記)

ヤマボウシ

 朝 起きると、夜中に雪が降っていたようで、今朝は、20センチほど雪が積もっていた。窓越しにみえるヤマボウシも、紫式部も、根元は雪におおわれ、ひろげた 枝だけが、真白な雪のジュータンのうえにくっきりと自分の存在を主張していた。初秋の頃に剪定しておいた枝振りは、それなりのバランスを保っていたので、 ひとまず安心した。小さいながらも、4本のヤマボウシが並んでいる。5年間ほど鉢に植えたままだったため、成長は遅い。小さなヤマボウシだが、庭の土に移 してから、しっかりと根を張ったようで、枝振りは4本とも元気だ。
 4 本のヤマボウシが、というより、いくつぶかのヤマボウシの種子が、わが家にやってきたのは、元号が昭和から平成にかわった年の秋のことだった。岩手大学で の学会報告の帰途、ちょっと立ち寄った高速道路のサービスエリア付近に、紅葉したヤマボウシが、鈴なりの真っ赤な実をつけて、街路樹として、整然と列をな していた。あまりにもあざやかな姿だったので、地に落ちた種子を拾い集め、タバコのパッケージから抜き取ったセロファンの袋に入れて、家まで持ち帰った。 一晩ほど水につけておいてから、プランターに捲き、少し土をかぶせておいた。
 す ると、翌年になって、まったく期待していなかったが、小さな芽を出した。種子が発芽したのだった。10本ほどの黄緑色の芽が土のなかから、スクッと立ち上 がってきたのだった。ベランダのプランターのなかで、しっかりした一歩を歩みだした。そうやって、ヤマボウシは、わが家にやってきた。
 真夏に水やりを忘れたり、伸び放題の枝をそのまま放置しておいたりと、手入れを怠り、結局、何本かは枯らしてしまったが、いまでも、4本のヤマボウシは、今朝のような雪の中でも元気に育っている。小振りだが、大地にしっかりと根を張っている。
 学会報告の帰途、高速道路のサービスエリアでの偶然の出会い以来、この4本のヤマボウシは、自分の青森県八戸市での歩みとともにある。平成元年(1989年)春に、北国八戸の大学に勤めることになったが、それは、ヤマボウシがわが家にやってきた年でもあるからだ。
 鉢 植えだった頃のヤマボウシも、庭に移植したヤマボウシも、よくながめてきた。小さな生命の営みを見つめることで、気持が集中し、時間のたつのも忘れること がしばしばあった。ただ漠然とながめていたこともある。あるときは、あまりの成長の早さに驚かされた。ウドン粉病に取りつかれて、緑の葉が白く染まるとき は、さすがに胸がいたむ。何回か、薬も使ってみたのだが、効き目がないようだった。
 長 い間、植木鉢の中にいたせいか、成長不良でいまだ小さなままのヤマボウシである。でも、もう6年間もいっしょに暮らしてきたことになる。ウドン粉病に打ち 勝って、もっと元気になり、スクスクと伸びてほしい。そして、ずーと待ちつづけているのだが、願わくば、小さなサッカーボールのようなあの真っ赤な実が、 来年あたりにでもなってほしいものだ。

(1995年12月17日記)

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