2. グローバル資本主義の果てになにが見えるか ~不安定化する経済と問われる日本の対米姿勢~
20世紀末の問いかけ
国境を越えて自由に移動する巨大マネーが各国経済をかく乱し、ときには経済危機を誘発し、国家破産にまで追い込んでしまう時代がやってきた。 現代の金融ビジネスは、コンピュータのネットワークにのって、多国籍的に展開され、地球上(グローバル)の利益を追い求める。株でも、土地でも、通貨で も、地球上のあらゆる商品がビジネスのターゲットにされ、売った買ったの取引材料にされる。
近年では、タイの通貨(バーツ)の売買をきっかけに、東南アジアーロシアー中南米が、時期を同じくして連鎖的な経済危機と国家破産に沈んでしまった。か たや、巨大マネーの本流を取り込み、地球上に配分するウォール街とアメリカは、独りバブル経済に浮かれ、わが世の春を謳歌しているかのようである。
現代世界の経済は、激動の渦中にある。そこでは、モノづくりよりも、マネーそのものが注目され、目先の利益を追い求めたビジネスが展開される。巨額の負 債の山を残した現代日本のバブルの膨張と破裂の経験は、目先の利益を追い求める現代経済の特徴と問題点を、身近な存在として鮮やかに描いてみせてくれた。
地球的な規模でのビジネス展開(グローバリゼーション)の果てに見えてきたものは、市場経済の不安定性と冷酷さであった。「経済大国」日本は、海外で 300万人ほどを雇用しつつも、国内ではリストラと人減らしを加速させ、300万人を超える過去最高の失業者を排出している。20世紀末のいま、グローバ ル化した資本主義経済は、何を問いかけているのだろうか。
せめぎ合う市場・国家・市民社会
世界の連鎖的な金融危機をめぐって開催された米議会の公聴会では、米国型経済モデルや市場経済についての失望や深刻な証言が相次いだ(いずれ も、「金融巨大化が生む連鎖破壊への戦慄」『朝日新聞』1998年9月26日)。たとえば、次のようである。「このところの金融市場は、まるで建物を破壊 する巨大な鉄球のようだ。互いに激突し、その国の経済をぶち壊す。ブラジルが倒れたら、次はアルゼンチンが危ない。」(アメリカ下院銀行委員会公聴会記 録)。「金融市場はグロ-バルな規模で一体化を進めてきたが、いまやその暗黒部分を目の当たりにしている」(証券最大手米メリルリンチ会長の言)。
まもなく21世紀に差しかかろうとする現代経済は、のっぴきならない事態を抱え込んでしまった。それは、資本主義経済に特有の景気循環から周期的にやって 来る従来型の不況だけではない。巨大マネーと金融市場の動向からも、「その国の経済をぶち壊」されるような深刻な事態に直面している。資本主義経済の目的 と動機は、利益の追求にある。まだ財やサービスの生産や販売が主な経済活動である間は、景気循環的な不況をどう克服するか、といった問題で済んでいた。そ れが、マネーの自己増殖的なビジネスが自己目的化し、モノづくりをともなわない金融経済が独り歩きをしはじめると、事態は一層深刻になる。まして、巨大マ ネーがいとも簡単に国境を越えて移動できるようになると、一国の国民経済自体がその存亡を問われることになる。目先の利益を追い求めたルールなき資本主義 (それは、「市場万能幻想と規制緩和ファシズム」によって再構築される)が暴走しはじめるからである。言い換えれば、「市場」の論理によって、「国家」と 「市民社会」が選別され、再編成され、翻弄されてしまう。
「市場」、すなわち資本の論理の冷酷さについて、アメリカの『 NewsWeek 』誌は、次のように指摘する。「市場の強制力は、無邪気なほど無慈悲になることができる。弱者は容赦なく切り捨てるのが資本の論理だから、弱者や低所得者 に優しい国に、資本は寄りつかない。富裕層に高税を課せば、資本は逃げていくから、貧富の差はますます広がる一方であろう。」(1994年10月3日 号)。この指摘は、グローバル化した現代資本主義の果てに、現代人が見ることになる一般的な経済事象といえるであろう。
トップランナーアメリカの金融戦略と苦悩
世紀末現在の世界経済は、グローバル資本主義のトップランナーとして独り勝ちするアメリカと昭和初期に匹敵する大恐慌の影におびえる日本や国 家破産に直面し、IMFの管理下にあるアジア経済圏、また「市場万能幻想と規制緩和ファシズム」に一定の距離をおきつつ、将来的にはドルに対抗しうる国際 通貨(ユーロ)を立ちあげ、相対的に安定化するヨーロッパ経済圏、とに大きく色分けされよう。
たしかに、アメリカは、シリコンバレー(情報産業)とウォール街(金融)と財務省(政策当局)との人脈的経済的な融合を実現することで、近年、まれにみ る高度成長を達成してきた。対外的にも、銀行業や証券業などのアメリカ型金融システムを、グローバルスタンダード(世界標準)として世界各国に輸出し、定 着化させてきた。このアメリカの国際戦略は、日本などの海外の国にとっては、自国の金融制度の大改革、つまり金融の自由化・国際化(いわゆる金融ビッグバ ン)に着手することを意味する。アメリカの金融機関は、海外でのグローバルスタンダード(という名のアメリカンスタンダード)の進展度に応じて、八〇年代 にはイギリス金融街のロンドンへ、次いで九〇年代には東京へと、大挙して進出し、合併や買収(M&A)を繰り返して金融的に制圧する(たとえば、証券最大 手米メリルリンチによる山一証券の買収をみよ)。
だが、グローバル資本主義のトップランナーアメリカも、依然、世界中で最も大きな赤字(経常収支)から脱しきれていないし、投機的な金融会社(ヘッジ ファンド)のギャンブル的な資金運用は、国際的な危機の連鎖を造出しただけでなく、自国の金融機関にも巨額の損失を与えている。国内的には、貯蓄率マイナ ス、過剰消費と借金依存で加熱するバブルとその破裂の恐怖、拡大する貧富の格差と社会不安を抱え込んでいる。
老後の生活のために積み立てた年金を株式で運用する割合が高まるのは、たしかに株価に歴史的な高値(ダウ一万ドル超)をもたらす。だが、これは同時に、 株が暴落すれば、老後の資金が株式市場の藻くずとなって消え去ることを意味する。失業率が低下したが、それは、高賃金の常用労働者を解雇し、パートタイ マーというかたちで、より多くの労働者や失業者を雇用した結果でもあった。そのため、平均賃金の下落、企業業績の好転の裏で平均的な家計所得が減少し、ま た中産階級の分解・生活不安が増大する、といった事態が生じている。
問われる日本の対米姿勢と不況対策
自国の経済困難を他国に転嫁してきた大国の論理が、歴史上そうであったように、アメリカは、日本のような従属的な同盟国にいままで以上にリス ク(危険負担)を押しつけてきている。自国にジャパンマネーを取り込むために、日米金利格差(4~5%)を強要し、日本に低金利政策を迫ってきた。また自 国に有利な為替管理を行うことで、日本の在米金融資産に巨額の損失を発生させている。近年では、日本の不況が世界の景気回復の足かせになっているとして、 銀行の不良債権処理のために、公的資金を導入せよ、といった政策強要や日本銀行による国債の直接引受を行ってでも景気を回復させろ、との内政干渉的な財務 長官の発言まで飛びだしている。
アメリカに対して「NO!といえない」日本の政策当局は、こうした対日政策を受け入れ、長時間労働と過労死の果てに築き上げてきた日本の金融資産や勤労 所得を犠牲にしてきた。そもそも、日本版金融ビッグバンにしても、対日進出を意図したアメリカの多国籍的な金融機関からの「外圧」であり、またグローバル 資本主義に明日へのサバイバルを賭けようとする日本の大企業や金融機関の要望であった。国民サイドや預金者、大衆投資家、地域経済などからの要望であった わけではない。これによって、中小企業や地場産業は、必要な資金を十分供給してもらえないような事態(銀行の貸し渋りなど)にすら陥っている。
一連の規制緩和=市場万能信仰政策の展開は、企業倒産やリストラを促進し、また社会保障や福祉切り捨てとなって社会的な弱者を排出させている。不況対策に しても、この6年間で、100兆円の資金が投入されたが、従来型の大型公共事業偏重のためもあって、回復に結びついていない。銀行の不良債権処理のために 投入された60兆円の公的資金にしても、一面では、貸出先のゼネコンの債務償却に役立っているだけで、健全で、透明な金融システムづくり(これが本来の ビッグバンであるべきなのだが)は進展していない。
残されたのは、中央政府の300兆円を超える借金の山(国債残高)であり、民間の不良債権が そのまま政府によって肩代わりされている。「経済大国=生活貧国」といった従来型経済政策の抜本的な転換がもとめられよう。対外姿勢にしても、アメリカや ドルでなく、ヨーロッパ圏やアジア圏に対等に目をむけるべきであろう。
『群馬評論』第79号、群馬評論社、1999年7月
経済社会評論へ