40. 激変した経済社会 〜「一億総中流」から「貧困格差大国」へ〜
昭和43年、18歳で故郷を巣立ってから46年の歳月が流れた。光陰矢のごとしである。東京に出て学業に勤しみ、大阪で研究生活をスタートさせ、青森の大学で学園生活に戻り、いま、隣県の群馬大学で経済学を教えている。そして、本年度、大学を定年退職する。
65歳の自分の歩みは、研究対象にしてきた戦後日本の経済の歩みと重なっている。定年を迎えるに当たって、改めて、自分と重なる日本経済のあり方に目が向いてしまう。経済のあり方は、故郷のあり方を左右することでもあるからである。
実際のところ、日本の経済社会は、近年、戦後史的な構造変化に直面している。この構造変化の内容は、一言で言えば、世界第3位の経済大国の果実が、わたしたち国民諸階層に平等に配分されない国になってしまったことである。そのような国の典型のアメリカでは、わずか3%の富裕層が全資産の54%を独占するまでに格差が広がっている。日本もアメリカに似た社会になってきた。
というのも、戦後日本の経済システムは、1990年代後半の金融大改革(「金融ビッグバン」)、その後の小泉構造改革、そして現在のアベノミクスによって、アメリカ型のシステムに変えられてしまい、国会や各種の議会でも、国民生活より経済成長と大企業の利益を優先する各種経済政策が議決されてきたからである。
その結果、国民が自分を中流と感じた戦後日本の「一億総中流」社会が解体され、アメリカのように一握りの企業と個人がこの国の富を独り占めする世界有数の貧困格差社会になった。これは、利益の追求を最優先する資本主義経済の帰結でもあり、この経済を自分たちだけの利益と既得権益に直結させてきた政界・財界・官界の癒着の「鉄の三角形」(イギリスの『The Economist』誌の指摘)が存在しているからである。
今年8月に発表されたOECD(経済協力開発機構)の報告書によれば、日本の貧困率(所得が真ん中の世帯の半分以下の所得、2012年現在で122万円以下の世帯割合)は16・1%になり、主要国の中で、トルコやアメリカすら抜いて第2位になった。現代日本は、「一億総中流」社会どころか、主要国31カ国のなかで最悪の「貧困格差大国」に転落してしまった。OECDは、「日本は危険な状況にある」、と警告すらしている。
たしかに大企業の社長さんのなかには、年収10億円に達する報酬をもらう方が現れ、また個人の純資産が1億円以上の方が265万人(うち50億円以上の資産保有はほぼ2000世帯)に達している。
その一方で、明治43年に石川啄木が「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る「(『一握の砂』)、と詠んだ働く人々は、それから100年以上たった平成時代のいま、リストラに次ぐリストラで、非正規雇用者がほぼ2000万人になり、完全失業者が300万人を超え、苦しい生活を余儀なくされている。
国内経済の最大の柱である国民の消費水準は、賃金水準によって決まるので、賃金が下げつづけられると、消費は低迷し、ものは売れなくなり、経済不況が長期化する。
日本国内で雇用破壊のリストラをやり、安い賃金をもとめて海外に進出した企業が海外の現地で雇用する海外従業員数は、過去最高の558万人に達した。日本を代表する企業のほとんどは、国内生産よりも海外生産の割合が圧倒的に高い。たとえば、ホンダや日産など自動車メーカーは、ほぼ8割を海外で生産し、そこで人を雇って、国内ではほとんど生産しない、人も雇わない企業になっている。部品の発注も現地で発注するので、日本国内の下請け中小企業は仕事をなくし、経営が行き詰まり、破綻が続出した。全国各地の企業城下町では、野ざらしの廃屋や広大な空き地が広がっている。そこに人々の姿はない。
経済効率が最優先され、ヒト・モノ・カネが大都市圏、とくに東京に集中する。地域経済は疲弊し、空洞化が進む。全国の各地で、故郷がさびれ、空洞化する。単純に少子高齢化が進んだせいではない。経済産業省の審議会報告でも、こんな状態が続くと、2020年までに、さらに480万人の雇用機会が減少する、と予測している。
日本の大企業は、国内での生産と雇用を空洞化させ、海外で稼ぐ企業になってしまった。歴代政権も、経済成長政策ーじつは大企業だけが成長する政策ーを優先し、こんな企業行動を積極的に支援してきた。法人税減税など手厚い保護政策に支えられる大企業は、近年、決算期になると過去最高の利益を記録し、最近では300兆円を超える内部留保金を貯め込んでいる。バブルが崩壊した1990年代に入ってから、生活実感から言えば、「失われた25年」の長期不況がつづき、中小零細企業の大量倒産がつづいているのに、大企業・3メガバンクなどはわが世の春を謳歌している。日本経済自体が2極化し、格差と不均等発展の経済に陥っている。
国民には雇用機会がなくなり、賃金も1997年をピークに連続して引き下げられてきた。これでは、豊かでゆとりのある国民生活など実現されるわけがない。企業が社会的責任を放棄し、政府も主権者である国民の利益より大企業の利益を優先してきた。その結果、OECDから警告を受けるような「貧困格差大国」日本が出現してしまった。
では、どうすれば、「貧困格差大国」の汚名を返上し、世界第3位の経済大国にふさわしい豊かでゆとりある暮らしが実現できるのか?わたくしの専門の経済学、つまり「経世済民」(「世の中を治め、人民の苦しみを救うこと」『広辞苑(第6版)』)の学問から改善策を考えると、さしあたって300兆円も貯め込んだ大企業利益は、日本国民のためにはき出してもらい、企業に社会的責任を果たしてもらうこと、年間の労働時間で言えば、日本よりも3ヶ月も短いドイツやフランスのように、一週間の労働時間を35時間とし、残業を禁止し、生活に時間的なゆとりを保証することである。こんな政策を実施しただけで、私たちの生活はずいぶんと改善される。できないことはない。日本よりもずっと経済規模の小さいドイツやフランスでやっていることである。
問題は、そのような政策を実行してくれる政府と議員を、主権者である国民が選挙で選び取るかどうかである。主権在民を名実ともに実現できるかどうか、遠回りのようであっても、それが一番確実な目的達成の手段であるにちがいない。
経済は、やじろべえであり、あちらを立てれば、こちらが沈む。あちらとは、大企業と大東京であり、こちらとは、国民生活と地方である。いま、日本に求められているのは、あちらに傾きすぎたやじろべえを、こちらに傾かせることであり、それができるのは、この国の主権者しかいない。
こんなことがつらつら頭に浮かぶ今日この頃であり、故郷を巣立ってから46年の歳月のなかで、経済学を学び、研究してきた者の結論の一つともいえるようである。
(『小国文化』NO.89、2014年10月)
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