33. 日本経済ー温故知新
日本の経済社会は、歴史的な転換期を迎えている。この先、どのような未来が見えてくるのだろうか。ふり返ってみて、戦後日本の経済成長は、私た ちの生活を便利にしたが、豊かでゆとりのある社会を実現しただろうか。時代の転換期にある今、戦後日本の経済の歩みを顧みることは、それなりの意義がある にちがいない。
1 戦後処理・経済民主化と高度経済成長
●経済民主化とハイパーインフレーション
1945年8月、310万人の戦死者と875万人の罹災者を出し、空襲などにより国富の4分の1を失って、戦争は終わった。この野蛮な戦争に駆 り立てた日本帝国主義の経済的基礎は、三井・三菱・住友・安田などの財閥であった。10大財閥の経済支配力(1945年の払込資本金割合)は、日本経済の 35.2%に達し、金融業では53%、軍需産業などの重工業でも49%に及んでいた。
軍部や政界と結びついたこのような財閥支配を解体し、民主的な経済社会を築くことから、日本の戦後が始まった。
国内産業を支配し、軍国主義的な対外侵略を支持し、市場を海外に求めた財閥は、①財閥中枢の持ち株会社を解体し、②財閥家族の企業支配力を排除し、③保有していた株式を分散化する、ことで解体された。
ただ、財閥系の銀行は解体を免除されたため、後に、これらの銀行を中心に結びついた企業集団が形成されることになる。
財閥の解体、寄生地主制解体などの農地改革、労働組合法などの労働3法が制定され、労働条件の改善と賃金の引き上げなど、経済社会の民主的な改 革は進んでいった。他方で、石炭、鉄鋼、電力などの生産復興を重点にした傾斜生産方式が採用され、ここに資材、資金、労働力が集中された。
だが、国民生活は、「竹の子生活」を余儀なくされるほど、困難を極めた。というのも、戦時中の軍事国債の日銀引受によって過大に供給された軍需 資金が平時のインフレマネーとして表面化し、また重点産業への資金供給を担った復興金融公庫の資金調達が復興金融債の日銀引受に依存したために、「復金イ ンフレ」を引き起こし、東京の小売物価指数は、戦前水準(1934-36年平均=100)と比較して、終戦から5-6年間で30,000弱まで、つまり 300倍近くも物価が上昇するハイパーインフレーションによって破壊されたからである。
●高度経済成長の基盤
戦後直後の経済民主化、さらに1950-53年にかけての朝鮮戦争による特需景気によって、戦後の処理と不況から脱却し、日本経済は、1955 年から73年にかけて、世界が「日本の奇跡」と評価するような年平均実質10%ほどの高度経済成長を実現した。日本のGNP(国民総生産)は、1968年 に当時の西ドイツを抜き、資本主義国のなかでアメリカに次いで第2位の経済大国になった。
高度経済成長の基盤は、以下のようである。
① 戦争によって古い設備が破壊されたため、工場の建設、機械の導入など、巨額の新規設備投資が行われ、関係する産業に波及効果を生み、「投資が投資を呼ぶ」状況が現出した。
② 勤勉で、安価な賃金で働く労働者が、農村部から工業地帯に大量に供給され、生産を強力に支えた。中学を卒業し、集団就職した若者たちは、工場の人手不足を補い、低賃金で働く「金の卵」といわれた。
③ 企業部門と家計部門とで所得が比較的平等に配分され、国民の所得と購買力が高まり、旺盛な消費となって国内需要を拡大していった。テレビ、洗濯機、冷蔵庫などの家電や自動車などの耐久消費財が、大量に生産され、消費された。
④ 平和憲法の下で防衛費を押さえ込み、公共事業などインフラストラクチャの整備を優先させることができた。全国に高速道路が整備され、生産拠点から短時間で 製品を市場に搬入し、資本の回転を速める。太平洋ベルト地帯にコンビナートを形成し、産業エネルギーや原料の輸入、生産物の大消費地の大都市への隣接に よって集積の利益を最大化する。
⑤ 旺盛な設備投資に必要な資金は、国民の高い貯蓄率によって支えられ、それでも不足する場合は、民間銀行が日本銀行からの借入によって調達した資金を、産業 企業に融資した。銀行の与信超過(オーバー・ローン)、企業の借り過ぎ(オーバー・ボローイング)が、高度経済成長を資金面から支えた金融構造であった。
こうして日本経済は、好不況の景気循環を描きながらも、毎年10%ほどの規模で拡大し、高度経済成長を実現していった。
●高度成長の矛盾・公害・環境破壊・二重構造
より効率的に、最大限の利益を追求する資本主義的市場経済がフル回転し、日本経済は、経済成長率でも、経済規模でも、フランス、イギリス、西ドイツ(当時)を追い抜いたのは、1960年代後半であった。
だが、高度経済成長は、深刻なさまざまな問題点を生み出していった。
① 企業が効率を優先し、有毒物資の防止装置を節約し、利益追求に走ったために、「イタイイタイ病」、「熊本水俣病」や「新潟水俣病」、「四日市ぜんそく」と いった4大公害訴訟に象徴される多様な公害が発生し、国民の健康を脅かした。また、「森永ヒ素ミルク事件」、「サリドマイド事件」、「カネミ油症事件」な どの消費者問題も多発した。大量生産—大量消費—大量廃棄の一方通行型経済によって、大量の産業廃棄物が環境を破壊し、海辺や里山の景観は損なわれた。
② 地方から都市への急激な人口移動によって、地方の経済社会が停滞し、農業は衰退し、農村共同体・自然環境も破壊される一方、都市部では、人口の密集と住環境の悪化、交通渋滞と排気ガス、騒音とスモッグ、水質汚濁、ゴミ処理などの問題が深刻化する。
③ 日銀—民間銀行のルートで過剰な「成長通貨」が供給されたために、マネーサプライの伸びが経済成長率や賃金の伸び率を上回り、恒常的にインフレーションが発生し、国民生活は、インフレ物価高に悩まされた。
④ 高度経済成長は、旧財閥系の企業集団に象徴される大企業と全事業所数の99%、労働者の80%を占める中小企業との間の資本・賃金・生産性の格差を拡大し、経済の二重構造問題が顕在化していった。
高度経済成長がもたらした深刻なさまざまな問題点に直面し、このまま成長を続けることに警鐘を鳴らす「くたばれGNP」の連載記事が『朝日新聞』に登場したのは、1970年5月のことであった。
2 低成長経済への移行と円高不況
●スタグフレーションの発生
経済成長にストップをかけたのは、1973年10月の第4次中東戦争勃発にともなう「第1次石油危機」であった。石油輸出国機構(OPEC) は、原油の採掘量、価格などの決定権を外国石油企業から産油国に奪還することを決定し、その第一歩として、原油公示価格を1974年1月までに、ほぼ4倍 に引き上げることを通告した。
こうした産油国の動向は、世界経済に大きな影響をあたえ、産業の基幹エネルギーを石炭から石油に転換していた日本経済も例外ではなかった。とく に、わが国では、輸入原油の量、各種商品の在庫などについて、正確な情報開示がないままに、一般の消費者はトイレットペーパーを買いあさるなどのパニック に陥った。企業は、このパニックのなかで、石油製品だけでなく、さまざまな便乗値上げを繰り返し、「狂乱物価」、「たつまき値上げ」といった事態が社会を 覆った。
当時の新聞は、「物不足企業大もうけ。9月決算申告所得。値上がりでがっぽり。消費者泣く。」(『毎日新聞』1973年12月28日)、「実質利益3倍に、三菱油化の決算案。かくし切れぬ荒稼ぎ」(『朝日新聞』1974年2月10日)、などと報じている。
慌てた政府は、「日本列島改造ブーム」を支えた大型予算による成長促進的なインフレ政策から、デフレ的な「総需要抑制政策」に急激に舵を切ったために、景気は一挙に反転し、1974年になると、戦後はじめて「マイナス成長」を記録し、深刻な不況に突入した。
だが、このような不況下(1974年の実質成長率マイナス1.2%)にもかかわらず、総合商社、銀行、大企業の手元にある過剰なマネーが、土 地、株式、各種の商品投機に向かい、価格をつり上げていったため、物価は上昇(同年の卸売物価は、対前年度比で、プラス31.3%、消費者物価はプラス 24.5%)しつづけることになった。不況と物価高とが共存する新しい経済現象を示すスタグフレーション・stagflation(スタグネーション・ stagnation=不況、インフレーション・inflation=物価高)が発生した。
当時の日本経済を研究した林直道氏は、「このスタグネーションは、不況下にもかかわらず、財政金融のパイプから大企業中心に資金が注入されつづ けていること、および市場支配力にモノをいわせた大企業が操業度切下げ=固定費負担の増大を製品価格へ転嫁したこと、などにその原因がある。」(林直道 『現代の日本経済』青木書店、1976年、188ページ)、と指摘する。
「第1次石油危機」をきっかけにして、日本経済だけでなく、世界経済も、1974-5年にかけて、景気崩壊、スタグフレーション、長期化する不況、といった世界同時不況に襲われた。
●低成長下の経営合理化と集中豪雨的輸出
こうして、石油危機後の経済成長率は、1985年のバブル経済の膨張期まで年率3%台の低成長で推移した。
この間、経済や経営の合理化・効率化が徹底され、下請け会社からの買い叩き、社外工、パートタイマーの解雇、希望退職の勧奨など、大規模な人員整理が断行される。
他方で、産業構造も、それまでの資源多消費型の重化学工業から、省資源型の電子産業、サービス産業、省エネルギー技術の開発にシフトすることで、どの国よりもはやく景気を回復させる。
また内需の低迷を打開するため、欧米向けの輸出を急増させ、世界各国の輸出が伸び悩む中で、日本企業の「集中豪雨的輸出」は、自動車、電子機器などの分野で対外経済摩擦をもたらすことになった。
とくに日本車、家電などの対米輸出の増大は、わが国の対米貿易黒字を拡大する一方、アメリカの対日貿易赤字を深刻化させ、繰り返し日米貿易摩擦を引き起こした。
1985年に至り、日本は、世界最大の対外純債権国に到達する一方、アメリカは対外純債務国に転落し、国内の財政赤字に加えて、世界最大の貿易赤字国に転落する。
●プラザ「合意」と円高不況
とうとうアメリカは、1985年9月、ニューヨークのプラザホテルにおいて、日本、西ドイツ(当時)、フランス、イギリスの5カ国蔵相・中央銀 行総裁(G5)会議を開催し、各国に対して、これ以上のアメリカの貿易赤字を解消するための協力を要請し、ドル安誘導の協調介入について協議した。
日本はアメリカの要請に従った結果、プラザ「合意」時点での1ドル=240円台の円・ドル相場は、翌年には1ドル=200円を突破する円高になり、これ以上のドル安に歯止めをかける1987年2月のルーブル合意までに、1ドル=140円台の急激な円高となって進展した。
急激に進んだ円高のために、「貿易立国」日本の対外輸出は、一挙に困難になり、外需に依存した日本経済は、深刻な円高不況に陥った。大企業の下 請け会社、中小企業の経営赤字と倒産が深刻化し、失業者も増大した。自国通貨の円建てでなく、アメリカのドル建てを受け入れるわが国の貿易構造は、為替相 場に振り回される脆弱な構造を表面化させた。
円高不況対策として、国内では、相次いで大型予算が編成される一方、日本銀行による超低金利政策が発動され、財政金融の両サイドから強力に景気 刺激策が断行され、過剰なインフレマネーが散布される。また各種の規制が緩和される一方、総合保養地域整備法(「リゾート法」)が施行され、日本列島のリ ゾート開発、都市開発が促進され、各地でリゾート施設、ゴルフ場、別荘地などへの土地投機が大規模に行われる。
金融面でも、1985年末に5.0%であった公定歩合は、 1987年2月には、当時、史上最低の2.5%まで引き下げられる。超低金利政策と金融緩和による過剰なインフレマネーの供給によって、台頭したのはバブル経済である。
3 バブル経済の膨張と崩壊ー「失われた20年」
●バブル経済の膨張メカニズム
バブル(Bubble=泡)経済とは、財・サービスの生産と消費といった実体経済とは無関係に、不動産・商品・株式などの価格が上昇する経済である。それは、実体経済で必要とされるマネー以外の、過剰なマネーの利益を求めた投機的行動によって引き起こされる。
超低金利政策が維持され、銀行の貸出余力が高まっているのに、最大の顧客であった大企業は、円高不況の渦中にあり、減量経営と合理化に邁進し、 銀行から資金を調達して新規投資に充てるよりも、金利コストを削減するために、銀行からの借入金を返済する。さらに大企業の資金調達は、銀行からの借り入 れではなく、社債や株式の発行などによる証券市場を通じた直接金融に依存していく中で、銀行の対企業貸出は減退を迫られる。
貸出金利は銀行の重要な収益源なので、銀行は新しい貸出先として、不動産業・建設業・ノンバンクといった不動産関連3業種に傾倒する。不動産関 連3業種に向かった銀行の貸出金は、土地・マンション・別荘地・リゾート開発など向かっていった。地価や不動産価格は、勤労者の手の届かない高値にまで暴 騰する。
もうひとつ銀行のマネーが向かった先は、株式市場である。銀行などの金融機関は、「特定金銭信託」(特金)、「金銭信託以外の金銭信託」(ファ ンド・トラスト)への資金運用を強化し、このような信託形態を通じて大量のマネーが株式市場に流入し、株式バブルを膨張させていった。
金融機関だけでなく、企業も、本業以外に、値上がり益を追求する「財テク」に走り、土地投機、株式投機を繰り返し、バブル経済の膨張に一役買っていた。
土地・不動産、株式が値上がりすると、すぐに売却して値上がり益を稼ぐか、もしくは値上がりした土地・不動産、株式を担保にして銀行からさらに巨額のマネーを借り入れ、金融資産・不動産への大規模な投機が繰り返されることで、バブル経済は膨張をつづけた。
●バブル崩壊と平成大不況ーその責任の所在
土地・不動産価格の異常な値上がりは、一定の水準に達すると、実体経済の正常な活動を阻害する要因に転化する。
企業が新規投資に踏みだそうとしても、工場の立地やオフィスの価格が高すぎて、採算がとれなくなり、また勤労者が一生働いても返済できないような住宅ローンを組まないと住宅が持てない、といった深刻な問題が表面化するからである。
そこで、公定歩合を引き上げて金融を引き締め、過剰なマネーを吸収し、不動産向け貸付への総量規制をすることで、不動産市場にマネーが流入しな いような政策をとることになる。日銀は、1989-90年にかけ、公定歩合を5回にわたって2.5%から6.0%へ引き上げた。大蔵省(現財務省)も、 1990-91年にかけて、不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑える銀行局長通達(「土地関連融資の抑制について」)を出し、バブル経済は一 挙に崩壊する。
バブル経済が崩壊すると、不動産や株式に投資していた資金は回収不能になり、銀行も貸付金が返済されなくなり、不良債権(bad loan)を抱えこむ。投資に失敗した企業は巨額の負債を抱えて倒産し、つぶれないと思われていた大手金融機関も破綻する。日本経済は、長期にわたる平成 大不況に突入していく。
不況下で、人件費を押さえ込むために、賃金が削減され、「リストラ」という名の大量解雇が行われ、失業者が増大していった。就業形態も、不安定な非正規雇用が多くなり、生活不安が増幅していった。
不良債権を抱えた銀行は、企業からの資金ニーズを拒否し、貸し渋り、場合によっては、貸付金を強制的に奪回する貸し剥がしの行動をとるようになり、企業倒産が多発し、不況は深刻化する。
企業倒産と不況が深刻化すると、銀行も貸出金を回収できず、不良債権も新たに積み上がる、といった悪循環に陥る。
政府は、銀行の倒産を防ごうとして公的資金を投入し、また不況対策を強化し、国債の増発に依存した大規模な公共事業予算を組み、財政赤字を深刻化させる。
バブル経済の膨張と崩壊は、日本の経済社会に深刻な影響をあたえたが、このようなバブル経済を引き起こした責任を明確にしておくことは将来の再発防止のためにも不可欠である。
まず、銀行の責任である。バブルマネーの源泉は、最終的には銀行にあるからである。目前の利益に走った銀行行動がバブル経済の基本的な要因である。さらに額に汗することなく値上がり益を追求する企業などの大口投資家の責任も免れない。
銀行を監督するはずの大蔵省(現財務省)や日銀の責任も重要である。もっとはやく適切な処理をしていれば、バブルの膨張は防げていたからであ る。事実、ドイツではバブル経済は発生していない。それは、ドイツの財政金融当局がバブルの発生しないように規制をかけているからである。
●「構造改革」と貧困・格差社会の到来ー「失われた20年」
深刻な不況に陥った日本経済のあり方をめぐって、1990年代の後半以降、政府もメディアも、「構造改革なくして成長なし」、「規制緩和をすれ ば、経済は活性化する」、「官から民へ」、「市場に任せておけば効率化し、無駄がなくなる」、「大きな政府から小さな政府へ」などなど、といったフレーズ を繰り返しアピールしてきた。
これらのキャッチフレーズの背後にあるのは、市場原理主義を信奉する新自由主義的な「構造改革」論にほかならない。こうした「構造改革」論の主張した政策は、雇用制度、賃金制度、税制、社会保障制度、金融制度、などの分野では、ほぼ100%近く実地に移された。
問題は、その結果、日本の経済社会は、「構造改革」論のキャッチフレーズにあるように、経済が成長し、「活力ある社会」がやってきたかどうか、である。その答えは、あきらかにNO!である。
雇用制度を例にとって検証しよう。周知のように、雇用制度の規制は、「構造改革」のなかで大幅に緩和され、従来の「終身雇用」・「正規雇用」か ら、派遣・非正規雇用が増大した。派遣労働者などの非正規労働者数は、1986年の673万人から2009年の1721万人に増大し、全労働者の3人に1 人となった。派遣労働者の約5割は、年収200万円以下の所得である。
すなわち、雇用制度の規制緩和と「構造改革」の結果、労働者の所得は大幅に削減させられ、生活は不安定化し、通常の勤務をしていても生活保護以 下の所得すらもらえない「働く貧困層(ワーキングプア)」を生み出してきた。規制緩和によって6500万人の勤労者の賃金所得は低下し、生活は、活性化す るどころか、逆に悪化した。
このような規制緩和と「構造改革」によって労働者の賃金総額が低下するにつれて、企業、とりわけ大企業の取り分(図中の「内部留保額」)は拡大 し、企業収益は激増してきた。それだけはない。規制緩和「構造改革」前の1990年と比較して、2005年では、株主への配当金は、4倍に増大し、役員報 酬は倍増した。
規制緩和と「構造改革」とは、終身雇用や年功序列賃金などの日本的経営を解体し、「会社は株主のもの」というアメリカ型の「株主資本主義」を日本に浸透させ、根付かせることであった、ともいえるであろう。
最後に、「構造改革なくして成長なし」のキャッチフレーズのように、肝心の経済成長は達成できたのか、検証しておこう。その答えも、あきらかにNO!である。
規制緩和と「構造改革」に明け暮れた1991-2008年(リーマン・ショックの影響前)の実質GDPの平均成長率は、1.2%であり、戦後日本の各時期の経済成長率(1957-73年で9.4%、1974-90年で4.2%)と比較しても、最低の水準である。
特に注目されるのは、戦後最長の景気拡大期と定義された2002年2月から2007年10月までの69ヶ月にわたる「いざなみ景気」がこの期間に含まれているにもかかわらず、1.2%の低成長に止まったことである(下図参照)。
したがって、規制緩和を実行しても、「構造改革」を実行しても、経済は成長せず、むしろ、戦後最低の低成長を記録した、と結論づけることができる。
バブルの崩壊、その後の「構造改革」期は、日本の経済社会を活性化しなかっただけでなく、むしろ停滞させ、貧困と所得格差を拡大させてしまった。バブル崩壊後の「失われた20年」からどのような教訓を引き出すか、それが問題である。
結論を急ぐとすれば、特定の既得権益を守るような規制は緩和・撤廃するべきであるが、社会の安定、生活の安定、人権の擁護などに関連した規制、独占禁止法を初めとした各種の経済規制は、むしろ強化するべき規制に他ならない。
近年、実施されてきた「構造改革」は、大企業や富裕層の利益拡大に直結した「改革」であった。そのために、貧困と所得格差が拡大した。だが、求 められているのは、社会の安定、生活の安定、人権の擁護などを一層推進する真の構造改革であり、このような改革を早急に、大規模に実施することが、「健康 で文化的な最低限度の生活」を実現する道である。そうすれば、社会も生活も安定し、活性化するにちがいない。
原発の「安全神話」が崩壊したように、経済の「成長信仰」から脱却することが問われている。経済成長の果実は、中小企業や国民諸階層にしたたり 落ちず、大企業と大株主、内外の大口投資家が独占するような日本経済の構造改革が、本来求められていた真の構造改革といえるであろう。
『税経新報』No.597 2012 3-10ページ
(やまだ・ひろふみ)
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